《今に在る人》
百年を超えても飽きることなく人生を愛する方々は、過去と呼ばれるこれまでの道のりも愛しているが、意識をそこに置いていない。
過去の出来事を話す時にも、あの頃は良かったとか、誰それが生きていた時にはとか、湿っぽくなったり現状を憂いたり嘆いたりと言った雰囲気になる様子が全くない。
「いい時代になったもんです」と仰るなどして今に感謝する時に、ほんのりと良し悪しの評価が出て来る程度。
後はとてもさっぱりと、からっとしている。
とは言え、日々ノリノリで明るいだけな訳でもなく、彼らの日常にも、ふとした時に湿った空気は流れ込む。
それを隠したりせず、寂しい時には寂しさを、悲しいことには悲しいと、巡って来るものを素直に感じて味わう。
そうすることによって、空気が滞らず流れて行く。
そしてまた、意識に変化が訪れて歓びが溢れる。
雨雲が去って、太陽の光が射すのと変わらない。
全てが流動し、変化する。
その中に彼らも在る。
まさに今の中に。
覚めていなくても、この様にして全体と調和する生き方をなさる方も居るのかと、大変興味深く、彼らの存在を知れたことを感謝した。
先日ふと「百歳ってどんな気分かな?」と浮かんで、今の今、宮司を名乗る“これ”が百歳であったらとイメージしてみた。
多分、年上が殆ど居ない。
同年代も殆ど居ない。
かつてその場に居合わせ体験した思い出話は、世の大多数の人にとっては歴史上の出来事となっている。
と言う設定にして、浦島太郎の気分で辺りを見回してみた。
「…特に変わらないな」
と、気分的にそのままであることが確認出来た。
年上や同年代がほぼ居なくとも、新しく知り合える人々は存在する訳で、それはそれで面白いことだ。
と言うか、誰が何歳とか全く気にならない。
人は人だからだ。
過ぎ去りし日々の思い出もについても、そんなこともあったねとか、面白かったねと眺めることはあってもそこに感傷めいたものは全くない。
感傷って、不思議な言葉ではないだろうか。
固まってないと傷はつかない。
意識が持っている固定観念が、日々起きる変化の揺れにさらされて罅割れる。
それが、感傷と呼ばれるものになるのかも知れない。
これまでに発見した百歳超えて人生を愛する人々も、エア百歳を楽しんでみた宮司同様、感傷的ではない。
今に在る時、意識は自然と柔軟に、そして自由になる。
傷つきようがないのである。
今に在る時、流れ出すもの。
(2024/8/1)
8月のふろく・その1《夏の自由帳》
本来は春夏秋冬どの季節でも自由に過ごすことは可能ですが、自由にするにはまず休みだと言う人にとっては、夏休みがあったり、暑くて体を休める必要があったりするこの季節は、自由に過ごすことを決めやすい機会となります。
環境や立場によってそうすることが難しいと言う方も、この機会に可能な長さで自由に一人で過ごすことを決めて、体験なさってみて下さい。
体験を終えた後に、ご自身にとって自由とはどんなものであるか、文字の形にまとめて、消化と昇華に役立てる自由帳をこしらえました。
三つの提灯のうち、青には意識にとって自由を感じること。
ピンクには御神体に問いかけて受け取った自由を感じること。
真ん中の黄には青とピンクで分かったことを活かして実際自由に過ごしてみた内容を、それぞれお書き頂ける様になっています。
下の金魚鉢は、自由を味わって気づいたことや、ご自身にとって自由とはどんなものであるか分かったことをまとめるスペースです。
1枚でも何枚でも結構ですので、書くことを楽しんで、自由に自由と向き合われてみられて下さい。