《亡と動》
本日はちょっと不思議に感じていることについて書かせて頂く。
夏のお休みが明けて、通勤や通学をする人が増えるこの季節。
生活の変化にストレスを感じる方も多いと聞く。
“辛かったら逃げていいんだよ”
そうした言葉を目にする機会もある。
行く場所が切り立った崖の上とか急流のど真ん中で、体力的に厳しいと言う話ではなさそうで、
行く予定である場所に行きたくない
とは、多分
そこで会うだろう人々に会いたくないし、彼らと過ごしたくない
又は、
そこで行われる活動内容に関心が持てない
ことを指しているのだろうと想像出来る。
その時に、何故「逃げる」と言う表現が使われるのだろうか。
入学したり就職したりと、決めた上で通う場所だから「行って当たり前」で、それをキャンセルするのは“逃げ”扱いになる、と言うことなのだろうか。
通うと決めてあった場所に、我が強く話の通じない相手が居ることは勿論あり得る。
だからと言って応戦してとっちめるか猛獣使いの様に相手を懐柔する手腕がなく、その場で行われることに興味も持てないと、尻尾を巻いて逃げる感じになるのは何故なのか。
それは敗走であり、そこには勝負の影がちらつく。
不思議なのは、そこなのだ。
伸ばし合うことも可能な学校や職場を、潰し合いの戦場にしなければならない理由って何だろうか。
居合わせる人々と親しくなったり、そうならずとも適度な距離を保ってそれぞれ過ごすこと、その場に関心を持って集中することが、どうしても難しい場合。
それを単純に「別の場所で過ごす機会が訪れている」、と見ることも出来る。
そう言う巡り会わせもあるのかと受け入れて、充実して過ごせない場所を去って他に移る。
それは、逃亡ではなく移動である。
人生には色々な機会が巡って来る。
不覚社会の尺度と照らし合わせれば、不運や悲運と見なされることも起こる。
だがそこに敗北者の惨めさを持ち込んで身に纏ったりしなければ、何であれ一つの機会。
一つの移動、一つの体験となる。
逃げてはならない訳では勿論ない。
逃げたいなら逃げるのも自由。
只、話の分からない相手や気の進まない活動に付き合うのは時間の無駄であり、これは逃亡ではなく移動であると、胸を張って新たな場所へ向かう時。
世の中に関わって行く興味や愛を失わずに歩む時。
“敗北”による羞恥に苛まれることはないし、自身の無力感や誰かへの恨みを持ち越すこともない。
どちらが楽かは明らかではないだろうか。
自身が去った後の場所とそこに居る人々をこき下ろすこともない。
何故なら行われたのは上昇でも下降でもなく、単なる移動だからだ。
上下も勝敗も優劣も何もない、一つの動きである。
転校、転職、引っ越し、留学、離婚、独立開業etc。
場所であれ立場であれ何だって、ある場から別の場への移動。
逃げるは恥だが役に立つ
と言うフレーズについては、
逃げることは別に恥ではない、
役に立つこともあるかも知れない、
だが結構高くつく
と申し上げておく。
逃の先に亡。
移の先に動。
(2023/9/4)