《世も末?》

 

年末とは通常、12月20日以降を指すらしい。

 

こうした年の末や月の末と異なり、どのタイミングでも言うことが出来るのが

 

「世も末よね~」

 

表現

 

世も末とは、仏教の末法思想による言葉で、この世も終わりであることを意味する。

 

終わりであるとは、救いがたいと言うことらしい。

 

ちょっと無理かも、みたいなこともあるのか。

 

「救い難い…つまり駄目が極まると末?」

 

と、奇妙なルールに首をひねった。

 

末広がりの大団円ではなく、「もうお終いだ!」と続けるのを止めにして打ち切りたくなるのが、世も末状態

 

末法思想とは、末法に入ると仏教が衰えるとする思想だそうで、仏教が衰えたらもう法の末、即ち世の末。

 

つまり、世は仏教が基本になると言うこと。

 

 

どうりで、誰が何度「世も末!」と言おうが、実際には終わらない訳だ。

 

「今度こそ閉店!」などは、店主の意志実行に移せる。

 

だが、仏教でも他の宗教でも、と言うか人間の作り出した何であっても、世を終わらせることは出来ない

 

世は、特定の誰かや何かによって存続が左右されるものではないからだ。

 

末法思想が流行ったのは、平安後期から鎌倉時代にかけてだそうで、令和から振り返ると千年程前になる。

 

 

全然、末じゃない。

 

年末が終わって年が明けると、人々は年度末の話をし始める。

 

末の先にあるのは、また別の末なのだ。

 

人間は末を、切り替わりのポイントとして便利に使っている。

 

人が「世も末だ」と言う時、そこには今が最悪の末であると言う嘆きと、違う風に(多分もっと良い風に切り替わって欲しい願望がある。

 

 

今が最悪だと言う時、

 

次の最悪なる今が生まれる

 

最悪は最悪を生み

 

世も末は世も末を生む

 

感謝が感謝を生み

 

祝福が祝福を生み

 

歓びが歓びを生むのと同じに。

 

亀の卵から亀が生まれるのと同じに。

 

善行を続けているのにさっぱり世が良くならないと嘆く人は、表向きは感謝祝福歓びの様に雰囲気を整えつつ内心に我慢のある犠牲になることを繰り返している。

 

我慢が我慢を生み、犠牲が犠牲を生む。

 

そこに何の不思議もない

 

世も末だ発言を繰り返す人々は、只々気配の転写が続いているだけだと気づかない

 

百年も、千年も、飽きることなく。

 

これは、不思議なことである。

 

放つもの、皆、呼び水となる。

(2024/12/2)