《不思議な道のり》
「知れば知る程、面白い人だなぁ」
村井弦斎は小説『食道楽』の中で実に様々な素材を使った料理と調理法を、簡便なもの時間と手をかけるもの、手に入り易いもの珍しいもの、高価安価等のくくりなく、和洋中も問わず紹介している。
その数、630種。
ヒロインであるお登和嬢に始まり、主に女性達が語る料理に関する知識として紹介されるこれらのメニューとレシピ。
当初は確かに、お登和さんのモデルであると作者が公言している多嘉子夫人が作る家庭料理の中から紹介されていた。
そこに「料理があれではいけない、うちのコックを貸してやろう」と、手を差し伸べて来た人物が居たと言う。
村井夫妻の結婚に力添えをした人であり、『食道楽』の冒頭にも自邸の台所を文明生活の模範として紹介された、大隈重信である。
これはもう断れないだろう。実際有難く大隈邸お抱えの料理人を招いて3、4日程学び、その後に村井家でも専属のコックを雇った。
以降は料理人の協力のもとに試作実食を繰り返し、その成果を小説の中に織り交ぜて仕上げている。
それは西洋料理に関しての話で、日本料理については小田原藩の料理方を経て枕流亭を経営していた主人に教えを受け、中華料理では神田宝亭、維新号等の店から協力を得ていたと言う。
つまりヒロインお登和さんの陰には、多嘉子さんも居るには居るが、読者からしたらとんと知らないおじさん達が並んでいるのだ。
これは食べる係のおじさん達。
そうした舞台裏まで知り得ない読者の目にはお登和さんがとんでもないスーパーウーマンに映っただろうし、ともすれば嘘くさいと飽きられてしまう可能性もあったはずだ。
連載終了まで人気が保たれたのは徹底した調査と実験によってレシピが構築されていたことと、それをすらすら読めて面白いとまで感じさせる程、分かり易く文章が練り込まれていたからだろう。
書き手に余程の集中力と、余程の行動力がないとこうはならない。
それを可能にしている時点で稀有な作品と言える。
グルメあり恋のバトルあり。
嘘くさくて飽きられることはなかった様だが詳し過ぎてついて行けなくなることはあったのか、ダントツ売れたのは本編の春の巻。
夏秋冬はそこから数を減らしつつ一定の支持を得て、全体大ヒットと言える販売数を記録した。
本編より続編が売れることはあまりないそうで、『食道楽』も続編は殆ど話題にならなかった。
日露戦争を経て時勢が変わったことも関係するかも知れないが、作者の関心も別のことに移っていた様である。
そのことが良く分かるのは、続編最終巻の冬の巻。
本編程ではないが300種程のレシピを紹介していた続編の、何と締めくくりまでの残り50話程が殆ど全て鼻に関することになっている。
タイトルからして鼻の病気、鼻の関係、鼻と脳、鼻と教育、鼻と厄年と鼻縛りで続き、これじゃ鼻道楽ではとビックリした。
しかも本編で主人公だった大原君は、続編では登場人物の会話中でその存在について触れられるのみで、全く姿を現わさない。
面白いキャラクターだったのだが。
何て不思議な展開なんだと、作者本人や夫人のその後を知って、更に驚いた。
そして何故上からこの作品と作者を提示されたのかを理解した。
当初は「何で百年以上前のグルメ小説を急に?」と首を傾げたが、本当に全体一つの運びは見事なものだ。
出版業界において破格の成功をおさめ、人も羨む暮らしを手に入れ、自邸を美食の殿堂とも呼ばれた男が向かったのは、仙人修行とも言える様な道だったからである。
次回も村井さんについて。
(2023/11/13)