《万流の歓び》
今年のお年玉記念切手のシートに龍の姿がないことについて、世間の人は何か思ったりしているのだろうか。
声を拾い聴いてみると、概ね反応は龍のデザインを楽しみにしていたのに残念だと言う感じ。
その人気ぶりを改めて感じると共に、ふと浮かんだことがある。
もしも龍が、珍しくはあるが動物園やサバンナ、アマゾンの奥地等でなら実際に見られる生き物だったら、この人気は変化していただろうか?
つまり希少な長めの爬虫類みたいな存在だった場合、どうなっていたか。
龍を爬虫類と言えるのかはさておいて、体毛が無かったり、代わりに鱗がついていたりと見た目としては似ている。
爬虫類が特別好きだと言う人達も勿論いるが、犬や猫程には人の暮らしに溶け込んではいない。
どちらかと言えば怖い、苦手だと言う人も少なくない。
辰年が、ワニ年やビッグ巳年みたいな印象になれば、推測の域を出ないが多分人々の反応は
「続いてるし巳年とまとめてで良くない?」
「いっそのこと猫年つくろうよ!」
等となり、伝統だからそのまま残そうとなっても、そこにもう有難味はあまり残っていない気がする。
何故、辰年には他の干支には見られない人気と、恩恵を期待する雰囲気があるのか。
それは人が龍そのものに神性を感じるからであり、その神なる力による御利益があることを期待するからだ。
他の干支も神の使いとなったりするがあくまでお使いであり、それそのものが神意を発揮して、つまり独断で何かしてくれそうな期待は龍に集まる。
ましてリアルで見たことなければ、そりゃもう自由に夢膨らむ訳である。
有難味に加えて自由度の高さも龍の人気を支えている。
自由度が高いどころか自由そのもの、何故なら龍の本質は流だからだ。
普く全て、万のものに分け隔てなく流れるエネルギー。
これについては、お目にかかる機会のある方々に向けて、以前に申し上げたことがある。
お年玉記念切手のシートを眺めていて、このことがかたちとして明らかに現れる時代が来たのだなと、感慨深かった。
そして何とめでたいことだと、感心した訳である。
シートには流動するエネルギーの化身としての熨斗が様々な色で、幾つも画面に描かれている。
不覚の世で表現された、覚めていないことで可能になっていた矛盾や不自然さを伴う行いも、その中にはもれなく自由に流動するエネルギーが通っていたと言うこと。
不覚社会がこれまでやって来た色々も「それはそれで楽しかったね」と祝いつつ、
龍の形と言う器を解いて本質的な流の状態に戻し、
それらを束ねているものの存在も示している。
束ね熨斗のデザインは誠に奥深い、人智を超えたメッセージとなっているのだ。
束ねているもの、とは何だろうか。
それについては次回記事にて書かせて頂くことにする。
万の流れ、歓びに舞う。
(2024/2/12)