《丁度の意味》
形であると同時に点であることを忘れずに歩む時、「自分」と認識している端末と世界との息が合って来る。
タイミングが合い、面白い巡り合わせが起こり、起こること一つ一つを十分に味わうことが出来る。
つまり何につけ、丁度よく感じられることが増える。
不覚社会では良し悪しの査定がずっと人気であるが、人が求める良いを突き詰めると結局この「丁度よい」に至るのではないだろうか。
個の都合に沿って丁度よいものを求めることが多いが、個の都合はその時々の流れに合っていないことの方が多いので、丁度よいが叶うのは稀。
レア感が有難味を増す。
人はその稀なる丁度よいを「幸運」と呼んでいるのかも知れない。
本来、丁度にレアである必要はない。
丁の字は釘を表す象形文字であるそうで、レアな釘と言うのは聞いたことがない。
釘はひとつ切りを打つものではなく、作る物に合わせて複数打たれる。
それが順に並んで、歪みがないことから丁度の意味も生まれたと言う。
頭がダイヤか何かで出来て、でっかく飛び出した釘があったら、正直邪魔なんじゃないだろうか。
「最高の瞬間」と言うフレーズは魅力的な言葉として用いられたりするが、虚空にとってはいずれの瞬間も劣らず素晴らしいものだ。
至福であると、そのことが自然と腑に落ちる。
丁度の連続として物理次元に記される瞬間瞬間の輝きは、虚空から観ると美しい富記の流れ。
点滅し流動するいのちの運びである。
丁には「強く打つ」意味もあるらしい。
そこに全身全霊の歓びを感じる。
丁度よいを、程よいに繋げて「腹八分目」とか「足るを知る」とか、更には「身の丈に合わせる」「分をわきまえる」なんて、意味をどんどんずらして受け取って行く人々も居る。
丁度には、そこそこで抑えると言う意味は別にない。
まぁこんなもん、ではなく、来た瞬間瞬間をそれぞれその時の100%として受け取るのが丁度と言える。
全身全霊に必要なのは、歯を食い縛って力を入れることではなく、集中をすること。
必要な集中は、身の字で表される御神体と霊として表される分割意識の息が合うことに欠かせない。
以前記事にて、
“丁度とは、分割意識と御神体との呼吸が合って初めて分かること。”
と、申し上げたことがある。
“全力とは何かを分かるのと同じで、観察と実行があればそれで十分。
と言うか、理想に引っ張り上げて貰うやり方では、もう持たないのだ。”
とも、申し上げた。
特別な聖域がじゃんじゃん崩壊していることも手伝って、決まった形に理想を背負わせて遊ぶことも難しくなる一方となっている。
変容の時代を活き活きと楽しむ人々は、分割意識と御神体との呼吸を合わせることについて興味が湧き、観察と実行による注力をし始めているだろう。
一発逆転も特効薬も、優先席もない、特別さとは関係ない丁度を愛する世界は、平凡だ。
強い刺激を求める人々からすれば退屈に映るかも知れない。
だが大味な刺激では分かり得ない味わいがある、とても面白い世界である。
愛で丁度を記す時代。
(2023/10/23)