《ズレの元》
村井弦斎こと村井寛は文久三年に豊橋で、吉田藩藩士だった村井清と勢以の長男として生まれている。
やがて父に伴われて上京し、藩の江戸屋敷にて四歳で上野戦争を経験した。
父は武器を持って藩邸の外に出て行ったきり帰って来ないし、母は父の不在に逃げるなど恥だと避難を拒否し、家族と使用人にもその場に残ることを求めたと言う。
面子>安全であり、幼子だから特別扱いと言うこともない。
畳を立てかけた長持の陰に隠れて銃弾を避けるなど、九死に一生スペシャルみたいなことにもなっているし、武家の子とは言え幼少期に間近で戦闘を見ると言うのはやはり相当なショックになるんじゃないだろうか。
結果として寛も清も勢以も無事だったが、父母に守られないと言う不安がこれを切っ掛けに強く刷り込まれたのだとすれば、彼の中で父性や母性への不信があっても不思議ない。
弦斎曰く「典型的なサムライウーマン」だったらしい母は、多忙な父に代わって祖父と共に、幼い息子にスパルタ教育を施していたそうである。
彼が母について記す言葉には「貞節」「賢明」「強情」などがあり、全て緊張の強い言葉に感じる。
どうにか生き延びた後も安心は出来ず、上野戦争で生じた引責で清が隠居を命じられた為、弦斎はこの年に家督を継いでいる。
幼いうちに一家の当主となり、その後に妹は二人生まれたが他に男兄弟は居なかった。
つまり誰も代わってくれない状況。
父の清はこの数年後、藩の職を辞して息子の進学の為に家族で上京する。
清は学問において優秀なだけでなく時流を読むことにも長けていた人であったらしく、渋沢栄一を始めとする有力者の子女の漢学教師を務めたり、士族出身にしては珍しくビジネスも成功させるなどしている。
優れた父からの期待と、次代の村井家の命運を一人肩に背負ってひたすら勉学に励み、弦斎は脳病を発症してパンクするまで休めなかったのではないだろうか。
とは言え彼の人生上の出来事を遡っていて発見したズレの元は、こうしたショックな体験でもストレスフルな環境でもない。
それは、言い表すなら「奇妙な記憶の捻じ曲げ」である。
脳病を患い迷走する息子を支え続けた優秀有能な父。
息子の療養、調査旅行、洋行、何であれ頼まれれば資金を出し、友人の世話や就職活動まで代わりに行う父。
ところが弦斎は自らの生い立ちに関して、自分の子も含めて誰に向けても一貫して「父が商売で失敗したため家が極貧で、苦学したため身体をこわして学校を中退し、その後も家計を支えるために様々な職について苦労した」と語っている。
誰それがああ言ったとか、あの時自分はこう言う気持ちだったとか、そうしたことなら記憶がすげ変わる場合もあるかも知れない。
だが、費用を出したとか療養する場を用意したと言うのは記録も残る、具体的な事実である。
誤魔化しようがないはずなのだが。
それでも自分が苦労をしたと言い、支えた父の存在を自他の記憶から“消す“のは、相当な捻じ曲げである。
父の支えがあった時期は、脳病の苦しみが最も大きい時期でもあった。
病への恐れと共に「全部無かったことに」したかったのだとしても、ご丁寧に自身の苦労話で飾ってみせる所に、父ならそれも許してくれるだろうと言うある種の“甘え”を感じる。
そしてもう一つ感じたのが、
感謝の無さ。
資金や機会、時間、心配り等、様々なものを様々な形で提供されているにもかかわらず、そのことへの感謝が欠如している。
感謝を欠いたまま、未消化のままで、恐れから遠くに追いやったものは、驚く様な形に変わって戻って来たりする。
次回はそれについて書かせて頂き、村井さんから学んだものの総まとめとする。
捻じ曲げた分、ズレて行く。
(2023/11/27)