《カンカン大会》
本日記事では前回申し上げた面白い気づきについて書かせて頂く。
分割意識のお気に入りコレクションと、外の賑やかさは反響し合っていると、申し上げた。
面白いなと感じたのは、分割意識の籠もる「自」室のお気に入り一つに対し、反応が一つな訳ではないこと。
反応して次々と外に現れる「他」は賑やかと書いた通り、増える。
意識の作用によって万華鏡の様に広がると表現することも出来るだろうか。
この増え方が面白いと観察していて、更にその賑やかさに力を与えるものがあることに気づいた。
意識が起こす、感情の動きである。
「こんなのおかしい間違ってる!」「許さない!」と言う怒り
「そんなの酷いじゃない!」「どうにかならないの!」と言う嘆き
「勝った!」の優越、「負けた!」の屈辱
「負けてなるものか勝たねば」の切迫、「かなわないかも知れない」の焦燥
「もうダメだ」の絶望。
感感感、そしてまた感。
「カンカン大会だ、何を目指しているのかな」
と、不覚社会の感情の流れに意識を向けてみた。
色とりどりの感情に染まった糸(意図)が、気流の中を行き交うビジョンが来た。
流し素麺に似ているが、ひっ絡まったり色が混ざったりする所が少し違う。
素麵は水に逆らわず流れるのみで、感情と意図は影響し合うのだ。
ここに、「好き!」とか「美味しい!」「楽しい!」と言った幸福感も加わると、色合いはぐっと華やかになる。
幸福感が他の感と異なるのは、御神体も一緒に活き活きする動きになることがあると言う点。
意識ばかりが興奮して「好き!」「美味しい!」「楽しい!」とやっていて、御神体はそれに付き合っているだけの場合も勿論ある。
世の中を眺めていると、多くの人の感情は御神体を置き去りにしてヒートアップしている。
そして何を目指しているのかだが、
各自の意識がその時々で満足感を得ること
これであると分かった。
あくまで意識の意識による意識の為の、カンカン大会なのだ。
満足感を求めつつ、そこに
「こうだろうな」「こうであるべき」「こうかも?」
と言った制限を加えて、達成を易しくしたり難しくしたりと工夫を凝らしている。
中々に凝ったゲームである。
それを支えているのは?
(2024/7/8)