《どちらがどう?》
以前にも申し上げたことがあるが、
どちらでもよい
と
どうでもよい
は、似ている様で全く異なる。
ABどちらでもよいとは、どちらでも構わないと言うこと。構わない時、意識は柔軟である。
ABについて好悪や優劣の判断が残っていたとしても、構わず歩んでみようとする意志がある。
このどちらをどうに変えて、ABどうでも構わないとすると、どうなるか。
急にAだろうとBだろうと大した違いはないやと、ぞんざいに扱う感じになって来る。
何ならAかBかの選択を生む現状そのものが重要ではないとか、下らない、意味がないといった扱いをする雰囲気まで出て来る。
興味深いことである。
柔軟に変化して道を行くことと、
大した道ではないと斜に構えて雑に動くこと。
こうも違うのは何故なのか。
眺めていて、ふと気づいたことがある。
どうでもよいとなる意識の中には、
こうであったらどうでもよくないのに
と言った、何か願望や理想が存在するのだろうか。
そんなものが叶うとは思えないが、イメージするだけで意識上に全能感や達成感が得られる。
「すごく上手に絵に描けた餅」みたいなビジョンがあるのか。
ビジョンと呼ぶ程鮮明ではない、もっと曖昧でぼんやりしたイメージの場合もあるだろうか。
自分には縁がないが、この世の何処かにはある、万事望み通りか及第点に至るくらいには上手く行っている恵まれた状態。
それに比べたら今訪れている機会や人、物など、どれも大したことはない。
「どうでもいい」がそうした時に発生する気持ちであれば、そこに欠けているものは明らかだ。
今に意識があることと、
そこに歓びがあること。
どちらでもよいとなる意識の中には、願望や理想ではなく、今を生きる歓びがあるのを感じる。
どちらに進んでも歓びがあることは変わらない。
どうでもの方は、道や未知、進むこと、変わること、味わうこと、どれに対しても興味が薄く、感覚も鈍っている。
この違いは心構えであるとか、何か精神的なものに根ざしている訳ではない。
分割意識と御神体の息が合っているかどうかと言う、実にシンプルな一点。
これに尽きるのだ。
投げ槍捨て鉢、
得るのは疲労のみ。
(2024/6/13)