《ちからと自由》
今月上旬からずっと、ちからについて書かせて頂いて来た。
《力辿れば》と言う記事の中に出て来た
“この口から湧き出しているものが「ちから」なはずだが、それは一体?”
の問いについては、源は虚空であり、その空から来る命がちからであると分かった。
これにはもう一つの問いが続いていた。
“そして⑨だけ「頼り」「支え」「物」「人」「よりどころ」と、固定されたものが並んでいるのは何故なのか?”
力添えとか、力を貸す、又は力を借りると言ったりする。
⑨は自らと異なる湧き出し口から、力を得る動きなので、
固定されたもの(者・物)
↓
ちから
↓
固定されたもの(者・物)
と言う流れになる。
貸し借りとなって逆方向にちからを返される場合もあるし、添えたら添えっぱなしの場合もある。
この本人以外のちからを使う動きが出来るから、一層ややこしい不覚体験が可能になったのだと興味深く頷いた。
本人以外のちからを使う動き自体は良くも悪くもない。
協力するからこそ成せるものは沢山ある。
只、我が身や身内の得のみを求めて本人以外のちからを利用する動きは、これからどんどん難しくなる。
虚空が舵を切った新しい世界への移行が明らかになる流れの中で、大きな転換期である変容の時代。
ここでは、これまでエゴの都合で無視されがちだったそれぞれの自由意志が何をおいても重要になる。
誰かの自由意志を封じようとすると、同時に自らの自由も狭まって行く。
誰かも、自らも、同じ。
自他は無いからだ。
「自他は無いならみんな私の思い通り・言う通りでいいのでは?」
となるのは権力者に限らず、肥大したエゴを抱えた意識にありがちなこと。
だが、その「私」だって無いのだよ、と言う話。
無いものの都合をどうやって通すのか。
そのことを、「主演私による私物語」を撮ることばかりに意識が向いている人々は、認められない。
自由意志は己の発言や行動のみについて発揮出来るもので、己以外の意志を歪める自由は誰も持ち得ないと認められる人々には、新しい時代の訪れによる変化はどちらに向かっても追い風となる。
そして人間が持ちがちな「大切な誰かの為」と言う枠を超えて、全体の弥栄に貢献するなら何でも惜しみなく行うと意志する時、巡って来る機会は全て本道を行く後押しとなる。
搾取もなければ貸し借りの認識すらない、力合わせるはたらきによって、想像や常識やそこから意識が作り出した限界と言うイメージを遥かに超える、素晴らしい結果や成果が実るのだ。
自由に合わせて、輝くちから。
(2024/1/25)