《さちほこり?》
「行く先々ず~っと信号が青で!」
「私が買ったのが最後の一つだったの!」
「偶然あった人が凄い人で!」
スピリチュアルやオカルトに傾倒する人、
ファンタジーや魔法的なものに惹かれる人、
瞑想やアファメーション等の切り口から自己実現をはかろうとする人、
インフルエンサーとして支持者を増やそうとする人。
老若男女問わず、色んな場所で人から幸を誇る動きは出て来る。
全く同じ内容でも、単純に面白いことがあったよと言う話をしているだけの場合もある。
その時には、妙な強調の「!」はつかない。
シンプルな報告と違って、
「私ってそう言う恵まれた運のいい人!」「私みたいな生き方をしてたらそうなれるよ!」
等のメッセージが下に敷かれて
「○○さん、すごーい!」
の反応を聴ける方向に誘導する、求める方に曲げる力がかかっているのが幸誇りである。
花が開く様子を見て、人は咲き誇ると表現したりする。
このことについては幾度か、書かせて頂いたがどれだけ花を眺めても彼らから歓びを感じはしても、誇ると言う動きは感じられない。
咲いて誇ろうとするのは人だけなのだ。
植物が鳥や虫に花粉を多く運ばれる為に色や形を進化させたり、動物がより繁殖力の高い相手と子孫を残す為に自分の生命力をアピールしたりするのは、状況や対象を限定したシンプルな動きだ。
生まれてから死ぬまでずっと運命に愛されている風に見える小細工など、彼らはしない。
幸誇りは周囲から抜きん出ようとする人が自己アピールとして使う手段の一つで、自然な流れに乗っていると必要のない動きである。
だが、そもそも自然じゃないことをやってみようよの試みでエゴも不覚もある訳で、それが分かっていると幸誇りもやってみたくてやったバリエーションの一つ。
それはそれでかつては必要だったことである。
只、続けることがどんどん苦しくなって行く動きなので、ここからどう廃れて行くかも面白く観察している。
自然の花は誇らないし、引け目に感じてうつむく花も見ない。
地と通じる根を断たれた切り花も、「何するんだ!」と怒ったり「もうダメだおしまいだ」としおれたりせず晴れやかに花開き今を生きている。
首だけとか、足首を切られた状態で、晴れやかに出来る人は居ないだろう。
花の部分は植物にとって生殖器官にあたるので、首の例えは的確とは言えないかも知れない。
それでも己の生存と種の繁栄にとって重要な部分を切り取られて、人の暮らしを彩るのに役立てられていることは確かだ。
中立に「本当は嫌だとかある?」と意識上で聞いてみたことがあるが、恨みや苦しみ、憎しみ等の反応は返って来なかった。
人の役に立てて嬉しいよとか言った利用者である人間を安心させる答えでもない。
返って来たものを言語化するなら「生きてるだけ!」と言うシンプルさ。
シンプルで、これ程美しい返答もないと感じる。
「花ってすごいなぁ」と、花と言う表現で物理次元に発生しているいのちを、しみじみと眺めたりしている。
誇る裏に、引け目あり。
(2024/2/29)
2月のふろくはお休みし、来月以降いずれかの月に2つご用意します。