《からのちから》
空から来る命と言う力の本質。
それを理解した上で、ちからの表れについて欠かすことの出来ない大事な点とは何か。
ちからをチ・カラで分けてそのうちのチを血、カラを幹や殻であるとする時。
流動するチを、かたちある姿にするのはカラの役割となる。
そして何もない空っぽのカラである時、その中には常に空がある。
ちからに霊因の字を当てるやり方は、かなり強引なものである様に感じる。
見えざる霊があってこそ見える肉体に力が宿るのだと言うなら、逆も又然り。
見える肉体を通して動きを起こさなければ、霊のどんな意も空騒ぎの夢想に過ぎないのではないだろうか。
見えない、と言う点では霊は空に近い。
それ故に「霊こそ空の代理である」と言う自負を伴う認識も生じたのだろう。
実際には物理次元上のあらゆるもの、見えるもの見えざるもの全て虚空より生じている。
霊であるとか魂であるとか我であるとか自認している分割意識も、その伴侶である御神体も、虚空より生じているのは同じ。
同じなのだ。
そこに優劣は全くないと言う意味でも。質においては虚空と同じと言う意味でも。
優劣をつける気などないよと言う分割意識は多いだろうが、果たしてこれまでどうだったろうか。
仕事を納期に間に合わせたり夜通しゲームや試合観戦やパーティーをしたいのは意識の都合であって、御神体が睡眠時間を削りたい訳ではない。
お腹がはちきれる程、時には吐くまで食べたり飲んだりしたいのも意識の都合によるものであって、御神体がそうしたい訳ではない。
身を挺して国家や帰属する集団の為に戦いたいと言うのも意識の選択であり、御神体はそれに付き合って来ただけである。
人類の歴史を紐解けば、意識の我を通すことを優先して、御神体に自然ではない振る舞いをさせた例は数え切れない程ある。
勿論それはそれで、時間をかけ何代も繰り返して奇妙な行いをすると言う、不覚体験チャレンジとして虚空がわざわざやってみたいことではあった。
だがご承知の通り、それもずっと続くものではない。
全てのパターンをやり尽くして、旧いものの焼き直ししか生じなくなったら、新しい体験に移るのだ。
只今の流れで言うと、
御神体にとっての自然とは何かを分割意識が丁寧に感じ取って、
行動の舵取りとなる意志を定め、
分割意識と御神体の“夫婦”の総意としての実行をする。
この様に体験の在り方は変わり始めている。
この変化を無視して、相変わらず意識のやりたい放題に御神体を付き合わせると言うスタイルを維持しようとすれば、どんどん苦しくなって来る。
力任せに押し通そうとしても、全然力が湧いて来ない。
そんな力枯れみたいな状態を起こす人を、これから様々な所に様々な形で見ることが増える。
同時にそうした人々の姿を通して時流の変化に気づき、生き方を変える人々も増える。
只今は、ちからについても誠に面白い転換期となっている。
無理に力の通らぬ時代。
(2024/1/22)