《いちかばちか?》
前回記事を書かせて頂いた日に、大きな揺れの報せを聞いた。
「1月1日に揺らして、
8月8日に揺らすんだ。
いちかばちかってこと…?」
と、首を捻った。
目を覚ましたからと言って、この世に起こる全てを予見することはないし、そんな必要もないのだが、起きたことへの
「あぁなるほど」
と言う気づきや理解は、すんなり来るようになる。
何かの能力が高いからじゃなく、こう言う世界であって欲しいとか、あるべきだと言う願望がないので出来ている。
世の中を見渡すと、不覚社会的に言えば新旧の交代が起こり、貧富の差が拡大し、インフラがガタピシし、戦争の機運も盛り上がりと、何かとバラバラに分かれて行く動きが目立つ。
ばらけてでもエゴゲームを各自続けようと言う算段が、まだしばらく続くのだろうかと眺めていたが、大きな揺れとその先で高まるもっと大きな揺れの可能性に、そうも行かないのかと頷いた。
一か八かとは、どうなるか予想がつかないことを、運を天にまかせてやってみる意味で使われる。
賭博用語から出来た言葉らしく、そこから「一か八かの賭けに出る」「一か八かの大勝負」等、勝負ごとや後先がわからないことに取り組む時に使われる。
賽子をつかった丁半賭博では、偶数を丁、奇数を半と呼ぶので、丁半それぞれの字の上の部分にあたる一と八をとって、「一か八か」の表現が生まれたそうだ。
覚めることは賭けではないし、覚める覚めないも勝ち負けではない。
なのに、それが一か八かとは何とも不思議で面白い。
賭博用語に「賽子の目に一が出るかそれ以外の目が出て罰となるか」を意味する「一か罰か」があって、そこから一か八かに転じたという説もある。
「全一に還るか、バラバラに散るかと言うこと?」
大きな揺れは別に罰ではないので、「一か罰か」であったとしても不思議な例えになる。
何にしても虚空も虚空から来る全体一つの流れも、形だけの移り変わりを進化と見なしてお茶を濁すやり方は望んでいないのが分かり、頷いた。
本質的な進化変容が起こることを促している。
意識が変わらざるを得ない程の衝撃を起こしてでも。
それが一体どんなかたちで現れるのかを前もって知ることは出来ないし、知る必要もない。
ただ愛で、世を揺らすいちかばちかの動きを観て行くのみである。
揺れて生まれる意識の火。
(2024/8/12)