《あっちもこっちも》

 

本日は彼岸の入り

 

以前に申し上げたこともある通り、日本におけるお彼岸は、サンスクリット語のパーラミターから来ていると言われている。

 

パーラミターは仏教用語であり、「完成する、成就する」という意味を持つ。

 

これを音写して字を当てたのが波羅蜜多であり、般若波羅蜜多で始まる、般若心経でもお馴染みのフレーズ。

 

 

仏教的に完成成就を願うものと言えば悟りのことであり、パーラミターは輪廻の世界から解脱して、迷いのない悟りの境地に達することを意味しているのだと言う。

 

この悟りの境地を川を挟んだ向こう岸表現したのが、日本の伝統行事「お彼岸」の始まり。

 

彼岸ひがんが設定されることで、現状暮らしている煩悩ありきの世界此岸しがんと呼ばれるようになる。

 

境地だけなら、特に川で挟むと言う条件はない

 

だが両岸とする時、そこには必ず川が存在する

 

 

川幅がどれ位のものかは人ごとにイメージが異なるだろうが、彼の岸とすることで随分遠くに感じるものとなったのではないだろうか。

 

到達することのない遥か先。

 

その一方で、先祖や亡くなった家族友人等、縁や思い入れを感じる存在には心的に近くあって欲しいと人は望む。

 

目に見えないだけで、すぐ傍にいる様な。

 

そんな温かさを願う人々が、この時期お墓参りなどで故人を偲ぶのを観察しながら、ふと不思議に感じることがある。

 

結局その岸は、近いの?遠いの?

 

いつか到達したい場所としては遠く。

 

優しく見守ってくれる場所としては近く。

 

そんな便利なズーム機能が付いているのは何故なのか。

 

それが付いている奇妙さに、何故気づかないのか。

 

これらの謎と並んで、ご先祖様とか亡くなった両親とか、彼岸に居るはずである特定の人物についてのイメージ映像についても不思議に感じている。

 

何故、その年齢で?

 

 

こうやって過去に遡って会いに行くのではなく今ここから「亡くなったおばあちゃん」とイメージしただけの時にも、のびちゃんは幼い自分に優しかったあの時のおばあちゃんを思い浮かべるだろう

 

過去でなく彼岸に行ったらどうなるだろう。

 

おばあちゃん本人にしてみれば彼岸で暮らすのなら、節々が痛いとか目が霞むとかのない、のびちゃん位の年齢で居た方が過ごし易くはないだろうか。

 

しかしそうなると、いざ会えても孫側の第一声はおそらく「誰!?!」である。

 

思い出が心を支えてくれる、そんな風にして過ごすことが必要な時と場合も、人によってはあるのだろう。

 

彼岸とは、目隠ししたままの人間意識が作り上げた、一つの“芸術品”と言えるかも知れない。

 

 あっちもこっちもない世界。

(2024/9/19)