《黒き母》
缶入りにして飲んでみたり、ゲームの中で一緒に遊んでみたり。
人は怪物の力を借りて使う時、アルギニンや糖分、色彩やデザインだけでなく、「その奥にある自由のイメージ」からも力を得ている。
怪物の力で願望を叶えられた様に感じる時、意識の中で“自由”と見なす領域が拡大する快感が伴う。
なのでそれは大概、癖になる。
一回きりで終わることは稀である。
折角繰り返せるのだからその機会に、緑の爪痕の背後にある真っ暗な空間に気づいて、
「あれ?俺が用があるのはこっちでは?」
となったりも出来るだろうに、世の人にとっては難しいことなのだろうか。
それをお尋ねしても返って来るのは
「何にもない真っ暗に向かって、そんなこと気がつく訳ないでしょ」
になるだろうか。
だが何故初めに、他でもない「真っ暗な真っ黒」が採用されたのか。
そこには何か別の色を使用したのでは補えない点があったからだ。
monsterの意味を調べると「正体の分からない恐ろしいもの」「怪物」「怪獣」等、出て来る。
物や獣がついて具体化する前、そもそもは何だか分らないものだったのだ。
monsterの語源と言われるものには、「見せる」を意味するmonstraneや「警告」を意味するmonereの他に、monstrumがある。
これも物や獣のことを言っておらず、「正体は分からないけれども、存在を感じることができる出来事や物」の意味を持っている。
正体が分からないだけで、そこに善悪や吉凶の判定はされていない。
「驚異的」「不可思議」なモノコトの前兆である。只、それだけだ。
しかし人間には、ビックリしちゃうことに向けて警戒をするプログラムがある。
このプログラムがなければ命を守れない場面に幾つも遭遇して、その度に危機を回避出来たり出来なかったり。
そうして様々な体験を可能にしたことで、得体が知れないだけだったものに肉付けや脚色が起き「油断ならない危険なもの」としての怪物イメージが蓄えられて行った。
先程の語源とされるものの中に「警告」を意味する語があったが、警告も危機回避ゲームを始める前には、単なる啓示、お知らせである。
お知らせをする方と、される方。
つまり何かを知っている方と、まだ知らない方。
これは親と子、大人と小人の関係に置き換えることが出来る。
お知らせを貰う一方で、得体が知れないってことはつまりどんな姿にも思い描けると、人は怪物をイメージの中でどんどん膨らませて遊び始めた。
こんな形。こんな力。こんな大きさ。
平安期に居たみたいだよの話から始まって後代に流行った鵺などは、その姿に人間のやりたい放題がさく裂した感じが見られる。
噂が噂を呼び、キャーっと震えつつかなり楽しみながら、イメージをワイワイ持ち寄ったんじゃないだろうか。
不覚社会を眺めていると、人は恐怖で遊ぶことに相当執心している。
ドキドキして危機感を楽しむ気持ちと、遊べる程度に恐怖を丸めてポケットサイズにしたいと言う安心を求める気持ちとが綯い交ぜになっている。
賑やかなことであり、そうやって好き放題に遊ばせてくれる、甘やかしてくれる相手であることを求めている点にも、親と子、大人と小人の関係を、怪の奥にあるものと自らとに重ねている様子が感じられる。
既にお気づきの方も居られるだろう、怪物の奥にある「何もないよ」とすることも出来る背景の黒に、分割意識達は全母たる虚空を感じている。
危険な気配で遊ぶ間にも人は虚空を感じており、そうした人々のことも虚空の母は分け隔てなく天意で観察している。
怪物の棲み処扱いして、おっかないもののイメージを挟んで来ても、黒き母は別に腹を立てたりしないし、背を向けたりもしないのだ。
人と、虚空と。どちらの運びも分けずに合わせて全体一つで観察する時、本当に味わい深い。
不覚社会が煮詰まった状態になる程に、全なる黒き母への求め訴えも激しさを増している。
では煮詰まりまくったらそれを切っ掛けにして、先に書いた様に俺が用があるのはこっちかなと気づけるのか。
それについては、木曜記事に書かせて頂くことにする。
何を求めて訴えるか。
(2023/3/6)