《過ぎて失う?》
不覚社会の安全装置が外れたことと、新世界の滑らかさにより、覚めないままの人々にとっては思ってもみない、
「そんなつもりは」
「こんなはずでは」
となる様なことが起き易くなっているのは、申し上げた通り。
巻き起こる色んなニュースを眺めていて、そう言えば不思議なことだと気づいた。
失言や失火の「失」って何だろうか。
言葉を失う、とかでなく寧ろそれを聞いた多くの人が
「何でそんなこと言っちゃうんだ」
と驚いたり不快になったりすることを、言っているのである。
社会で求められる秩序を乱す、つまり余計なことを言う訳で、それなら「余言」の方が表現として適切な気がする。
だが、調べてもそうした言葉は見つからなかった。
失火の方は、点火しないことや途中で消えることを意味する場合もあるらしい。
只、これは専門的な分野での使用法であり、一般的に知られる使い方は、過失から火事を出すこと。また、その火事。
つまり、火は失われず余分に
「何でそこからそんなに出ちゃうんだ」
となる場所や強さ大きさで出ているのだ。
この余計さによって一体何が失われたのだろうかと、説明を読み返して「過失」の部分に目が留まった。
過失について調べてみると、解説の第1に「 不注意などによって生じたしくじり。過ち。」と出て来た。
2番目は法律用語として2つ出て来た。
「私法上、一定の事実を認識することができるはずなのに、不注意で認識しないこと。」
「刑法上、行為者が不注意によって犯罪事実の発生を防止しなかった落ち度のある態度。」
そして3番目に書いてあった意味が「欠点」。
欠けなのだそうだ。
凹な感じが失に通じ、ここでようやくイメージが重なる。
言葉により、名誉や信頼、面目を失う。
火事により、家屋や家財、人命を失う。
過ぎたるは猶及ばざるが如しと言ったりする。
過ぎて失ったら、足りなくて及んでないのと一緒、と言うことなのだろうか。
何事でもやり過ぎることはやり足りないことと同様に良くないとするなら、じゃあ丁度って、どの位のことを言っているのか。
無理のない全力を感じることが出来ないなら、やり過ぎることもやり足りないこともない理想として中庸を掲げることは起きても、実現は
「難しいですよねぇ」
で遠ざけられたままになるのじゃないだろうか。
丁度とは、分割意識と御神体との呼吸が合って初めて分かること。
全力とは何かを分かるのと同じで、観察と実行があればそれで十分。
あるべき姿としての理想は、特に出番がない。
と言うか、理想に引っ張り上げて貰うやり方では、もう持たないのだ。
過失の1番目の意味に繰り返し「不注意」と出て来た。
意を注ぐ力、集中力を発揮するのに必要なのは何か。
新世界に順応出来る人々の関心は、これからそこへ向かうだろう。
得失を超えるもの。
(2022/11/14)