《賛ずらし》
オーラ、つまりauraとは元々何のことを言っていたのか。
調べてみると、流れる冷たい空気、そよ風、朝の新鮮な空気を意味する古代ギリシャ語だと言う。
朝はどこから来るかしらと言った問われ方をすることはあっても、明日本当に朝が来るかしらと言う問いかけは聞いたことがない。
「ここ最近朝来ないなぁ」
と言うのも聞いたことがない。
やって来る朝に新しさと爽やかさはあっても、正月等の節目となる日の朝を除いて人々がそれを特別感や神聖さで飾ることはない。
只の爽やか。
只の生まれたて。
それを感じさせる空気。
どうやって素のままの新鮮さが特別感を持たせた神聖さに置き換わったのだろうかと、aura使用の歴史を眺めてみた。
目に見えないがそこに在るエネルギーを感じて
「え!見えないけどあるの?」
となったシンプルな驚き。
その驚きがやがて畏敬の念に変わる。
更にそれが人間社会の規模拡大と共に神聖化と賛美に変わって行くと言う流れがそこにあった。
神聖化や賛美は利他的に見えても、実際は世の中における他の様々な動きと変わらず利己的なものであったりする。
神聖化したものを崇める集団の中に所属することで、自身の格上げに繋げる。
賛美は格上げする動きに勢いをつけて、更に盛り上げる。
神聖化と賛美の縦糸に個の都合と思惑の横糸を絡め、入り組ませて織り上げエゴタペストリーみたいなものを作る。
不覚全盛時代には、随分流行った作業である。
作業により作られた業は、ぎっちりと組んであればある程、解き難い。
勿論、目を覚ます意志がなければ、解く必要もない。
これはこれで、虚空がわざわざ不覚状態になって作り上げた“作品”だからである。
神聖化をして良かれの賛美で持ち上げるものが居れば、良かれの批判でこき下ろす者も居る。
両者が揃うことで場が盛り上がる。
どちらもそれぞれにとっての正義による、良かれ発信なのがポイントとなる。
批判の姿勢でモノコトの本質が分かりはしない様に、賛美も又、同じ。
それがそれであることについてのシンプルな理解を意識から遠ざけ、ずらす。
こうした賛ずらしは、褒める分には良いじゃないと決めてかかっていると、していることにもされていることにも中々気づけない。
賛否どちらの振り分けも無しに、モノコトを観る必要がある。
朝の空気が新鮮であることに賛否ってあるだろうか。
朝は夜より優れるだろうか。又は、劣るだろうか。
朝は朝であること只それだけで素晴らしいものではないだろうか。
つまりはそう言うことである。
賛も付けずに、観てみよう。
(2023/6/15)