《見えぬ実り》
以前にお伝えしたこともあるが、ひょんなことから鉢に植えた里芋の成長を観察していることを、先日機会があって園芸家の方に話した。
植えた経緯に対してなのか、農家でもない家にそうした植物が植わっていると言うことに対してなのか、良く分からないが大笑いされた。
そこでとにかくこの方は、里芋と言う植物について何かしらを知っているのだなと気づいたので、ちょっと質問してみることにした。
「いやぁ、育ってみるとびっくりする程大きくなりますね」
「だろうね」
実際の観察している芋ではないが大体こんな感じ。
他の植物とはサイズ感が違い、その辺りだけジュラシックパーク的な雰囲気になっている。
こんなに大きいと、ジャックと豆の木みたいに空を目指す感じになるのだろうかと眺めていたが、どうも縦に伸びては行かない様子である。
じゃあ一体どうなるのか。
それを知りたかったのだ。
「このまま行くとどうなりますかね?」
「まぁ芋が出来るだろうね」
なんですって?
里芋の成長に適した水や土、肥料については調べていたが、実が成ることには意識が行っていなかったので新鮮に驚いた。
だが、里芋を意図的に栽培しようとする人は大抵、逆に「芋を作ることを目的」として、それを行うのだろう。
生えたいのかなと植えられ、何の考えも特になく水や肥料を提供され、実りを驚かれる里芋と言うのは、割合に珍しいものかも知れない。
驚いているこちらをよそに、返事は楽しそうに続いた。
「秋になったら掘り起こすと芋が出来てるよ。
その中から幾つかを種芋にして植えると又、芋が出来るよ」
無限里芋。
もうこうなって来ると連綿と続く里芋の歴史が主で、こちらはそれに途中からちょろっと参加させて貰った者と言う感じ。
そして、芋達に育ちたい意志があるならそこを勝手に止めるのは自然ではない気がした。
気候天候その他諸々によって枯れる日が来るならそれも又それだが、こりゃ意外と長い付き合いになるのかも知れない。
と言うことで、里芋の健やかな成長と繁栄に必要なポイントを更に尋ね、有難いことに色々と教えて頂けた。
実りを特に意図して行わないのに、
何でか自然と実るものがある。
伸びる芽を見て生えたいのかいと植えてみただけなので、これからも里芋をどの位大きくしようとか、どの位増やして行こうとか、そうしたことには意識は向かわないだろう。
現に、今の今も「そんなの里芋の自由だ」としか浮かばない。
生えたいものを、育ちたいものを、実りたいものを。
それぞれの自由意志に沿って手伝うこと、そしてその運びを観察することは、こちらの歓びにもなっている。
それは人の成長を観察する時にも同じことが言える。
生えたいと言う意志を相手に植え付けることは不可能である。
生えたいものに相応しい場所を用意することしか出来ないのだ。
目に見えぬ実り、歓びと共に着々と。
(2021/7/22)