《表と奥》
皮膚について知る中で、改めて気がついたのが
意識には「表」を軽んじるプログラムがある
と言うこと。
浅い理解に留まると言う時の「浅い」と近い意味で、「表面的」と表現したりする。
浅と表をごた混ぜにすることも興味深いが、以下に並べる様な
表層的な・上辺の・外面的な・見かけの・上辺だけの・見かけ上の・かいなでしただけの・表面をなぞっただけの・形だけの
と言った表現も、どれ一つとして肯定的な意味で使われていない。
上様と持ち上げたり体面を気にしたりと、大事にしているはずの上と面を使って、
“上っ面だけの”
と表現したりもする。
つくづくと面白いことである。
人体の表面にある皮膚。
七難隠しなどと言う様に、見た感じの印象を気にすることはあっても、皮膚って何なのかと言う興味の話はあまり聞いたことがない。
0番目じゃない方の脳については、丸ごとそれ一冊と言った本が数多出版され、それを好んで読む人も多い。
皮膚への関心の薄さは、人の意識にある表と言うものに対する軽んじと無縁ではない。
表裏一体と言う様に、表には裏がセットになることが良くある。
表を都合よく整え、見せたくないものを隠していそうな時、人は
「裏があるんじゃないのか」
と言ったりする。
「奥があるんじゃないのか」
とは言わない。
引っくり返して暴くゲームがやりたいから指摘するだけで、奥には関心がないのかも知れない。
表に対しての軽んじには一部の表、つまりは顔のことだが、「盛れる」と言うことが関係する。
粉飾し、良い風に見せる、偽ることも出来るのが表面、と言う見方。
化粧はメイクと呼ばれる様になって久しく、見た目に対する人々の認識も日々変化しているので、これから表を軽んじる表現は出番が減って行くかも知れない。
メイクは見ること触れることを通して、意識の集中が皮膚に向かう機会を生む。
スキンケアの方は盛る要素がない分、更にシンプルに皮膚に向き合えそうである。
だが、どちらにしても望ましい自分像を意識が思い描きそれに近づけることに夢中になるだけで、皮膚がその間にどう変化しているかを観察・対応しなければ、コミュニケーションにはならない。
意識が御神体に対して行う、一方的なお絵描きになる。
それでも愛し、遊ばせてくれる。
入れ替わりしつつ、消えることなくそこに在ってくれる。
表で赤面、かさつき、切り傷、痣、火傷、虫刺され、ニキビ、汗疹等一手に引き受ける皮膚の方が、奥にある意識より余程大人であったりする。
奥なら偉い、こともない。
(2023/6/22)