《行楽の力》
行楽とは古い言い方なのか、日常会話の中で聞くことはあまりない。
だが、現在でもたまに「春の行楽シーズンに向けて…」と言ったニュースを見かけたりする。
場所によってはまだ、それなりに使われる言葉である模様。
山野などに行って遊び楽しむことを意味すると言う行楽。
遊山とはほぼ同じ意味合いになっており、観光とも多少の差はあってもその線引きはどこか曖昧な感じになっている。
出向いて野山で遊んだり興味ある場所を観たりするのと同じに、行楽も行って楽しければ家の近所でも構わないと言う訳ではなさそうだ。
多少距離があり
多少自然豊かで
多少設備整った
「手に負える非日常」みたいな、条件付けがある。
世に知られたノリである「楽あれば苦あり」でなく、行楽について人は「苦はなく楽のみ」を求める様子。
学業や職業と言った普段の業を苦行扱いにして、たまの休みに行楽を挟んでまとめることで楽あれば苦あり状態を作っているのかも知れない。
草臥れる位に移動距離が長かったり、
危険を感じる程に厳しい環境だったり、
店やトイレがない待ち時間がかかる等、
何かしら不便を感じることがあったりすると行楽にも、苦行の気配が出て来る。
「わざわざ出かけるんだから苦しいことは極力ない方が良い」と言う来訪者側の求めに応えて、行楽地で商売する側も工夫してなるたけ苦を減らし楽を大きくすることに努める。
結果、現代ではもう行楽の機会に苦しめるとしたら、虫刺されや靴擦れ位しか残っていないのではと言う程、各方面で綺麗に整備されている。
人の都合でどうにもならぬ代表の様なお天気も、雷雨とか雹とか竜巻などが登場しない限り、苦まで感じさせるのは難しそうだ。
この「手に負える非日常」は、不覚的お約束反復システムが機能しなくなっている2023において、人間にどの様な変化をもたらすのか。
ふと、そんなことに興味が湧いた。
どの位遠くに離れたら、行楽じゃなくなるのだろうかと言う問いも浮かんだ。
そこに野山があったとして、地球の裏側まで行くことを指して行楽とは言わない気がする。
それは行楽ではなく旅行と呼ばれる。
旅を行う。それは苦も楽も定まらない、只の動き。
苦行行楽どちらかに収めようとしない時、予想だにしない未知の面白さを感じ易くなる。
だが、変化の大きいこの時代に未知を怖がらず、起きていることをそのまま面白いと感じるには柔軟さと余裕が必要。
どちらかと言えば苦行よりは行楽の方が、精神的にも肉体的にもそうした余裕が生まれ易くはあるだろうか。
あらゆるモノコトは目を覚ます機会に成り得る。
行楽もその外ではない。
行楽を活用して意識を磨いてみようとする人が居られたら、予定調和に収まらない未知の要素を内容に取り入れ、そこを集中して味わわれることをお勧めする。
お約束を超えた未知なる体験は、分割意識と御神体のどちらも活き活きと輝かせる。
新き道を、気楽に行く。
(2023/3/30)
3月のふろく《新行楽メモ》
新しさを意識して行楽を味わうメモをこしらえました。
左上の輪っかには日付をご記入頂きます。
黄色のふわふわは行楽の前にこれをやってみようと意志する新しい点について記す欄。
花開いたタンポポは行楽の内容と現地で発見した新しさとその面白さについて記す欄。
白と黄色で出来た家は、体験した新しさに感謝して祝い、昇華する欄となっています。