《自然と手筈》
先日、動物園で雌のホッキョクグマが雄に襲われ死ぬと言うニュースを目にした。
亡くなったのは水族館で生まれたクマで、数年前から動物園に移して飼育、繁殖を試みていた折の“事故”だと言う。
眺めていて、「そう言えば不思議だな」と感じることがあれこれ浮かんで来た。
「ホッキョクグマは水族なのか動物なのか」
「ホッキョクグマを殖やしたいのは誰なのか」
「それは当のクマ達にとって自然なことなのか」
こうした様々な「不思議だな」は、どれも
「動物を園に収めて、人間が観に行くスタイル、不思議だな」
に、行き着く。
お目にかかる機会のある方には、この件について既にお話したこともある。
世の中は2023でも不思議な状態のままとなっている。
ホッキョクグマが水族なのか動物なのかについては、譲渡可能な点から見ても「どっちであるかは人間が決めて良い」ことになっているのだろう。
ホッキョクグマを殖やしたいのは誰か、これも当たり前に人間であってクマや他の生き物ではない。
殖やす為に譲られたのだろうし、殖える数によっては譲った方にもリターンがあるかも知れない。
そして両方を訪れる人々も、殖えたら喜ばしく感じるだろう。
水族館や動物園に出かける人の中に、動物の赤ちゃんが大嫌いと言う人はおそらく居ない。
生き物が好きな人達は、幼い生き物が輪をかけて好きだ。
フワフワの無垢で無邪気な可愛らしい存在は、それを見たがる来場者の数も増やすだろうし、グッズも作れば更に儲かる。
産まれればほぼ間違いなくドル箱、日本なので円箱だろうか。
そうした事情を含めるとやはり、クマより人間の欲求を満たす動きである様に感じる。
先程並べた不思議だなの3番目、「それは当のクマ達にとって自然なことなのか」については、なったことがないので分からないが、クマにも好みや気分があるんじゃないだろうか。
それにもし野生動物の意識に「より強い子を残したい」とするプログラムがあるなら、複数の雄が戦ってその内の一頭が雌を勝ち取るプロセスが必要とは言えないだろうか。
保護されて、相手をあてがわれて、様子を窺われて、と言うのが自然なことなのかどうか、ちょっと分からない。
死亡事故が起きたとして、ホッキョクグマに労災保険はない。
そしてお詫びもされない。
詫び入れろとか言わないから?
事故が起きた動物園の園長からのお知らせには、クマの生まれ育った水族館のスタッフと地元の人々に対して「心からお詫び申し上げます」と書かれていた。
そしてこの訃報を聞いて悲しく感じた人々に向けてだろう言葉として、
「この度は、皆様に辛く悲しいお気持ちにさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。謹んでお詫び申し上げます」
とあった。
だが、亡くなったクマに対して詫びる言葉は特になかった。
字が読めないから?
それが最も不思議だったが、クマへの詫びはクマの自由を認めることに繋がると気づいた。
そうなればもう「野生動物の飼育って自然?」の不思議さも包み隠さず丸見えになってしまう。
「保護を目的として」と言う飼育の理由付けにも、「いや、死んでるし」と矛盾が明らかに。
出来ないはずである。
この件について人類の間違いを指摘すると言った気は毛頭なく、これも又、エゴを持っているからこそ出来ることだと、静かに眺めている。
そしてもう、やり尽くして新しさがなくなっているので、変てこさがこうして目に見えるかたちで現れている。
只それだけだ。
書かせて頂いたのは、
人間の良かれとしての行いが、人間すら喜ばない結果に着地することが増えている
と、改めてお伝えする必要があったから。
これから流れは加速する。
そして速い流れの中で「あれ、そう言えば不思議だな?」と気づく人も増えて行くのだ。
自然は手筈で囲めない。
(2023/3/13)