それと同じに、腹も含むあらゆる部分が御神体の“身”である。
当たり前のことなのだが、そう言えば何故ここで出されるのが腹なのだろうかとふと、興味が湧いた。
と言うのも、人間はこの慣用句を持ち出す時に、腹を軽んじて使っているからだ。
「腹も身の内」の腹とは、胃腸のことを指すそうだ。
腹だって身内なんだから大事にしてあげなさいよと、胃腸を末席に置いているのだとしたらそれは何故なのか。
問いが浮かんだ後、ひょんなことから観る機会のあったテレビ番組の中から、ひょっこり答が現れた。
生命の体内で最初に出来た臓器は腸であり、更に複雑な動きを求めて腸を基盤に脳が作られたと言う。
この流れを示して、番組では腸を脳の親と表現していた。
そして脳のことを、快楽を求めて過剰なアルコール摂取を含める暴飲暴食を行ったり、気まぐれに生活リズムを乱して親である腸を苦しめるドラ息子だとしていた。
と言うことは「腹も身の内」とは、親を軽んじつつもまあ仲間に入れてやろうと高を括った状態で節制を促している動きなのだろうか。
ふと、身内には「味方だろう」と言う意味合いも、含まれているのかも知れないと浮かんだ。
口を通して入って来た「外」の要素を、消化吸収する役割が胃腸にはある。
何を入れるかを胃腸が選んでいる訳でもないのに、時には腹下しや食中毒などでショックや不快感を与えて来るとして、外への不信と緊張をそのまま胃腸を遠ざけて末席に置くことに繋げているのだろうか。
だとすればやはり随分勝手なことだと言える。
腹は空になることが出来る。
一方で人は空っぽを嫌がる。
不足を嫌い、常に満足を求める。
空を内包する腹を遠ざけてギリ身内とする「腹も身の内」の使い方には、空っぽになることを恐れ内なる虚空を畏れして反発する意味も感じられる。
恐がっているのは、御神体の何処か他の部分ではない。
御神体のあらゆる部分は、脳も勿論含めて腹を恐れていない。畏れてもいないし嫌ってもいない。
暴れ回るドラ息子が居るとすれば、それは脳ではなく不覚の分割意識のことだ。
ここで、腹に対する態度は恐れから来ているだけではないことに気づいた。
外からの不確定要素を持って来る危険な存在としつつも、何があっても自分を見捨てない、そして反撃して来ない相手として、なめてかかり甘えきっている節もある。
馬鹿にして、八つ当たりして、頼って、甘える。
腹も身内どころか、腹こそ身内だった訳だ。
それはやはり、未成熟な子が親にとる態度に似ている。
お袋の呼び方や腹を痛めての表現がある通り、腹への態度は殊に母親に対してとる態度に似ている。
母なる存在への依存と反発。
これも不覚と言うフィルター有りの状態で出来る変てこな動きを全てしてみようと言う、虚空による試みだったので何が不味い訳でも別にない。
虚空である自らによる試み。
不味いどころか何と見事に分断してみたのだろうかと、拍手しても不思議ない位の出来映えである。
そうしてやり切った不覚体験はとっくに出揃っている。
だから分割意識が覚めぬままの状態でまどろむことには、何の応援もなくなっている。
虚空である自らの意志によって。
罰でもお叱りでもない、自然な流れである。
「自ら」「自然」等言うのが真に必要なのはこうした時で、ちゃっちゃな○○さんの欲求を満たす為に使う言葉では本来ない。
ハラに甘えて、アタマを隠れ蓑にして、ちょろちょろ逃げ回るゲームは既に終わった。
只それだけなのだ。
一度寝てから起きてみるだけ。
(2022/11/7)