《脱皮と振動》
おかめおたふくを切っ掛けに愛嬌とは何かに興味が湧き、意識を向けていて浮かんだのが、
男は度胸、女は愛嬌
これに「坊主はお経」と続けてみたりもするそうである。
どの時代に生まれたフレーズなのかを調べたが、昭和の中頃までしか遡ることが出来なかった。
日本史の中では生まれてから割と日の浅い表現なのだろうか。
2023にこれを使えば、女は愛嬌の部分は即セクハラ扱いになりそうだ。
だが、男は度胸の方はどうだろうか。
こちらは男性が男性に対してはっぱをかける意味で使用したりもする。
望むと望まざるに拘わらず、言う方にも言われる方にも多少の誉れが発生する。
己で膨らました手前。
だから内心は「度胸なんてないよ~逃げた~い」となっても、それをはっきりと言うことは難しい気がする。
ちなみに「女は愛敬」も、男性が女性に言うだけに止まらない。
調べていて見つけた使用例がこちら。
「男は度胸で女は愛嬌ということがある。
あんたみたいに、年中ふくれっつらしてはったら、お嫁にもらい手もあらへん」
壺井栄の小説『やまほととぎす』の中で、家族に心を閉ざす娘に対して、母親がこの様に諭そうとする場面で出て来る。
女性が女性に向けた言葉として、女性が書いている。
女に愛嬌のある方が男にとって嬉しいが為に作られた言葉かも知れないが、ここに出て来る母親の様に「男は度胸、女は愛嬌」的な価値観が幅を利かすのを手伝って来た女達も居る。
男に度胸のある方が女にとって嬉しい面、都合のいい面、女は愛嬌と言っておけばおさまりのいい場面も確かにあったのではないだろうか。
現代では度胸や愛嬌を性別で分けて担当するのが無理なことや、無意味なことが明らかになりつつある。
女にとってのやり辛さや男にとってのやり辛さが揺らぐ。
その一方で、男にとっての都合良さや女にとっての都合良さも同時に揺らいで行く。
そりゃそうである。
男でも女でも坊主でも誰でもない、中心の虚空から不覚社会を観察していると、あちこちに起こるそうした揺らぎは生まれつつある新しいものが古い殻を脱ごうと、もぞもぞと動いている状態に見える。
女をより自由に もぞ
男をより自由に もぞ
少数派をより自由に もぞ
一部を広げると一部が縮まる。
あっちこっちで「もぞ」が起きるので、広げたつもりが押し返されたりもする。
沢山の「もぞ」をその何処からも離れて、全体を引きで観る時、動きの一つ一つは小さく、振動の様に感じられる。
ぶるぶるぶるぶる、ベリッ。
破れて出て来るものを、その瞬間を、面白く興味深く眺めている。
脱げる皮にも感謝。
(2023/2/6)