《肌の理》
「ふ~む、これなら理解を深めた先に何か出て来るかも」
前回記事にて
“流動するものが一時結ぶかたち。
地において今ありありとそこにあるものも、同じである。”
と、申し上げた。
同じであるが、世の中的には未だそう扱われていない。
有るものは固定されてそこに在り、徐々に変化して行くことは認めても空間から切り離された個別のモノである、として見られている。
そしてそのモノ達に対して人は逐一、
使えるとか使えないとか、立派だとかみすぼらしいとか、
カッコいいとかダサいとか、美味しそうとか不味そうとか、
美しいとか醜いとか、暖かみがあるとか寒々しいとか、
良し悪しの判定も絡めて色々に評価する。
中々、それが只それであると言うシンプルな見え方にならないのは、人がモノを通して「自分の見なし方」を表現したがるからかも知れない。
モノの見方には個々人の抱える好みが大きく関係する。
例えば、顔の造作と言う様に「つくる」ことが出来るとされる顔。
「神様のいたずら」だとか「親に感謝しなさい」などと言った表現で評価をされて、当人が「つくる」ことは出来ない感じだった顔の造作。
「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」みたいに、内面が醸し出す雰囲気を言う場合にのみ自力も認められていた。
の、はずだったがここ数十年は造作も当人と当人が選定した医者がデザインして変える選択肢が生まれて、一部の国ではそれが年々広がりを見せている。
自分の顔を、自分が好きに変える。
実際は、御神体のかたちを分割意識の好みに合わせて切ったり縫ったり吸ったり埋めたり削ったり継いだりあれやこれやする、と言うことである。
この行い自体に良い悪いはない。
全体の流れに沿う中で、それが滅び行く動きである可能性も含めて現時点で必要なのかも知れないし、起きていることの是非はいちいち量れない。又、その必要もない。
只、どうにも個々人の好みとその時々の流行りが影響して基準が安定せず、更には「そんなの美しいとは思えない」と言う別の好みを持つ人々が異なる主張を始めたりもして、結局したかったのは
それぞれの好みの発表
でしかなかったと言う動きに収まりがち。
まるで放射状になった綱引きをしている様に、あっちからもこっちからも好みの引っ張り合いをして、ヤンヤヤンヤやって切りがない。
好みに依らない美や整いを人は持たないのだろうかと観察していて、あっと気づいて本日記事冒頭の言葉が出た。これならの“これ”とは、
肌。
肌理が整う、と言ったりする。
肌の整いは皮膚を形成する細胞が特定の好みによるデザインに沿って並んで出来ている訳ではない。
この細胞は周りのに比べて綺麗だと言うのも、聞いたことがない。
肌と言う字の、月の横にあるのは几帳面などに使われる「几」。
木が隣につかなくとも、元々この形だけで「物を載せる脚つきの、つくえ」の意味を持っていたそうである。
脚の長さが違ってガタガタしていたらモノが載せ辛い。
用が済んだモノが片付けられずに積まれて居ても使い難い。
安定して、スッキリしていること。
只それだけであり、そこに好みは介入しない。
月(御神体)の几である肌もそれに同じ。
肌に理ありで肌理とは、本当に見事な表現と言える。
好みを超える、細やかさ。
(2023/6/5)