《続・ヒトコワ発見記》
先週お知らせ申し上げた、ヒトコワの世界を垣間見たことで起きた発見と気づき。
それらについて、本日記事では書かせて頂くこととする。
引用部分の前にも興味深い点があったかも知れないと、そこから遡ってみて気がついた。
見舞いに来てくれと、本人直々に求めている。
それも怪我による最初の入院と精神科への転院後と、二度。
入院した彼が筆者との関係をどう捉えていたかは分からないが、本の内容から伝わる限りでは怪談を集めている人と、酒を飲むついでにそれを提供してくれる人。
連絡がなかった時期も筆者の方で行方を捜した様子はないし、怪我や病気をしたから見舞いに来てくれと言う程、親しいものではなさそうである。
親しいとしても、怪我や病気で入院をしましたと言う報告を周囲にすることはあっても、だから見舞いに来てくれと入っている本人が求めると言う話はおよそ聞いたことがない。
報告を受けて見舞う気になった側からの申し入れに対し、見舞われる側の本人や家族がそれを受けるか断るか決めるのが主流なんじゃないだろうか。
その辺ぶっ飛ばして「見舞ってくれ~」と求める背景には主に彼側の事情があり、人恋しさ、と言うか人からの反応恋しさがある。
恋しさと書くと何だかかわいらしい雰囲気になるが、人からの反応がなければ居ても立ってもいられない、強い飢えと言う方が当たっているかも知れない。
ようやっと前回引用した部分に話を向けるが、反応が重要であることは彼の口から出た「話を評価してもらって君のように足繫く通ってくれる人もいるし」の言葉からも明らかだ。
統合が失調していると言われる状態であっても、人は人からの反応を求めるし、評価も求める。
これを確認出来たのは、大きな発見だった。
他者からの反応と評価を求める動きは、ある程度社会と調子が合っているから出来るものではない。
調子を失ったとされる状態でも出来るのである。
目隠ししたままでも、オイシイ匂いを求めて手探りで動くことは出来るのと同じに。
当ったり前のことなのだが、こうして生きた“証人”の登場を目の当たりにしたことで、静かに感謝が湧き上がって来た。
欲や思惑がないなんてオカシイ、何か裏があるはずと言った疑いは不覚社会でたまに見かけるが、調子がオカシクたって欲も思惑もあるのだ。
我欲があるのがマトモなどと、嘯けない時代が来ている。
自身に霊感や特殊な能力があると信じることで、人生前向きに楽しくやれるのだとする彼の発言。
ここも驚きだった。
霊感だとか、特殊能力だとか、ダークな中にちょっとホラーめいたテイストを加えて、酒の席でする怪談みたいなもので人を驚かせて楽しむ。
そうした人は、どちらかと言えば先行きも暗いものを好みそうだが、暗さやこわさで遊ぶことで自己重要感を増して気分良くなりたい人も、前向きで楽しくやろうとするのだ。
彼にとってはそっちが「前」であり、そして楽しいものなのかと、唸った。
全く、人それぞれである。
本当に「前」であり、そして楽しいものなら何故それを無感情に言い切るのかは謎だが。
感情が無いと言うより、隠している様子。
これ以上は話を続けさせない、何も突っ込ませないと言う必死の防御として、何も感じていない様な表情を盾にする。
不覚の人は楽しく生きる為としながら、誰も楽しくないしその先楽しくもならない戦いをしたりする。
不思議なことである。
自己防衛の頑なさが目立つ一方で、彼の言葉の中にはそこに依らない冷静さを感じる部分もある。
自身の霊感や能力について「信じている」としている点である。
「病気だって認識するより、霊感があったり特殊な能力があるから不思議な体験をするって信じて生きた方が人生前向きに楽しくやれる」と、信をここでも使っている。
霊感や能力について盲目的に語るのではなく、本人の信じているものとして捉えている。
自らの状態について、ある程度冷静に見ていなきゃ出来ないことじゃないだろうか。
「有るに決まってるだろ!」と激怒したり「何で疑うんだ」と泣いたりする訳ではないのだ。
これも、発見だった。
統合が失調していると聞いた時、そうした人を実際に見たことがなければ、何だか一般的にコミュニケーションと呼ばれるやり取りは全く出来なくなってしまう風にイメージする人は多いのではないだろうか。
実際、目に見えて混乱をきたしている様子で会話が成立しない人も居るが、この本に出て来る彼の様にここまで冷静に自身の状態を見ている人も居るのだ。
こうした発見からの気づきが幾つも起こり、腑に落ちて消化するにつれてそれは驚きと歓びを伴う理解に変わった。
木曜記事ではそれについて、何故この話題を記事として書くに至ったのかをも含めて書かせて頂くことにする。
信かと分かる冷静さ。
(2022/9/12)