《簡単なこと》
東西南北についてあれこれ調べる間に、目に見えないものと人々の間をつなぐシャーマン的な働きをする存在について知る機会があった。
神仏や霊的存在等、内容も呼び方も様々な見えざる“情報元”。
その代理人の様にして初めはイケイケドンドンな感じであっても、やがてその見えぬ何かとの交信が破綻して気がふれた状態になってしまう人が居る。
奇跡と狂気はどちらも稀なこととして、紙一重みたいな風にしてごた混ぜにされがち。
奇跡と呼ぶ程でなくとも稀なる力のバランスが崩れて不調に転じる流れは、記事に書かせて頂いた入院・寛解・転地となった彼の話にも通じる。
不覚を謳歌して来た旧時代にも、求めた奇跡が反動で狂気となって表れる人は居たが、これから目立って来る。
古いタイプの交信がもう必要なくなっていることのお知らせとして、世の人々にそれを実感させる生きた例となる役割を果たすのである。
旧式な交信を使ってアイディア、解決法、資金人脈情報等を手に入れて来た人にとっては日に日に難しさが増して行く。
この運びはお叱りではなく単なる干上がり。
虚空も物理次元も誰のことも責めないし、誰の反省も促さない。
そして誰のことも待たない。
人は奇跡を求め憧れる一方で、狂気に対する恐怖に怯えたりする。
目に見えないものや聴こえないものを感じ取れるのは、狂っているからではないのかと不安になり心配になる。
目に見えない存在からのメッセージを特別な奇跡扱いしなければ、そんなややこしいことにはならないのだが。
ヒトコワを切っ掛けに起きた様々な発見と気づきの後に至った理解。
それは、進化変容と言う不覚からしたら奇跡みたいなことに向かう中で、それが狂気に変わらないかの不安が人の内にあると言うことだった。
宮司を名乗るこの端末が普段受け取っている虚空や上からのメッセージは、覚めないままの人が神通力の発現だとして行う古いタイプの交信で受け取るものとは全く異なる。
違いは明白で、判別もとても簡単。
これから奇跡と狂気の間で気持ちが揺れることがあられたら、この違いを意識して頂ければ本道を行く足元の灯りとして役立つ。
ここをお伝えする必要があっての発見や気づきだったのだと感謝して、記事に書かせて頂くことにした。
虚空や上は長々と話しかけて来たりはしない。
責める様な事も脅す様なことも言って来ない。
くすぐる様なこともおだてる様なことも言って来ない。
シンプルに、主にこちらの問いかけに答える形で、メッセージを寄越す。
余程全体にとって必要なことがあれば、こちらで何も問いかけていなくとも実行を促すヒントを出したりする。
以上である。
こうしたものを受け取る時に必要なのは只一つ。
特別願望を手離すこと。
覚めたらもう持ちようがない願望だが、覚めていなくとも手を離しておこうと意識することでそれは出来る。
特別願望が差し挟まれて傾いた意識状態での受け取りは、不自然であり激しい消耗をもたらす。
殊に、見えないものからの受け取りは、見えないが故に真贋をはっきりさせることが出来ない。
信じたいものを信じることにするのが実に容易くなるだろう。
傾いているから、傾いたものが寄って来る。
傾いているから、傾いた内容を告げられる。
メッセージにしたって
「○○しないと××になるぞ」
「△△になりたくなかったら□□なさい」
などと脅して恐怖を添えたり、
「あなたは特別重要な人」
「その他大勢とは違う人」
と、直接的に言わなかったとしても心をくすぐり持ち上げて慢心を招いたりする気配があれば、それはとっくに傾いている。
無限なる虚空と全体一つの物理次元にとって、人型生命体を脅したり宥めたり撫でさする必要が一体何処にあるのだろうか。
当宮記事の中で時折上から送られた言葉を書いたりするのは、それが特別でも何でもないこと、当たり前のことだからである。
宮司を名乗る“これ”にだけ起こることではないし、“これ”を含むごく僅かな人にだけ起こることでもない。
誰に起きようが不思議ないし、生まれながらの資格みたいなものは別にないのだ。
そして、そうしたメッセージが来る者の方が人として上等な訳でも何でもない。
簡素で単純。
ここに天意からの愛を注ぎ、感謝することがお出来になるだろうか。
簡単に進もう。
(2022/9/15)