《福に甘える》
表に現れる様も式も、元は同じ。
あらゆる有は無から生じる。
生じた有に優劣をつけることは、評価判断差別と言った動きを可能にした。
そんなことはよろしくないと物申す動きも可能にした。
評価判断差別を評価判断差別することで、物申せているのでこれも又、同じ動きの範疇を出ない。
動きそのものは良くも悪くもない。
不動の虚空は動を体験しようと有を生じさせたので、不自然に見える動きであっても、生じるモノコトは元を辿ればどれも、虚空による遊び。
人間にとっての遊びとそれは異なるが、人間の遊びの中にも虚空による遊びの面白さを垣間見ることは出来る。
分かり易くそれが表れているのが、福笑いである。
江戸の七福神について調べる中で、たまにメンバー入りする面々の中で、或る存在に興味が湧いた。
多福の象徴とされる「於福」と呼ばれる女性を、入れ替えでなく、追加メンバーとすることが一時期流行ったと言う。
おたふくやおかめとも呼ばれる彼女は、ひょっとこと共に祭を盛り上げたり、鬼と共に「鬼は外~福は内~」と行事を盛り上げたりする。
色んな現場に顔を出す、マルチタレント的存在と言える。
調べてみて、おかめとおたふくの発祥は違うとする資料を発見した。
この頬がふっくらした女性像は、色んな場所から色んな経緯で世に現れている様である。
現在は割と、と言うか全く気にせず一緒になっている感じではないだろうか。
おかめとおたふく。
異なる出自にしてはよく似ているこの2つ。
「瓶」と「福」。
直接お目にかかる機会のある方々の中には、これで「ああ!」と気づかれた方も居られるかも知れない。
瓶と福について申し上げているテキストをお持ちの方は、気が向かれたらその箇所を改めて読み返して頂ければ理解が深まるだろう。
福笑いで生まれる笑いは、奇妙なバランスに生じる滑稽さへの笑い。
目隠ししたまま、のっぺらぼう状態の顔に向かい、イメージしたものを頼りに「こんな感じ?」とパーツを配置して行く。
行なう人は目を瞑ってても出来る程熟練した福笑い士な訳でなく、滅多にする機会を持たない言わば素人。
視界を遮られた時の距離感覚は鈍るので、目隠しをとって見てみると、出来上がりと想像図とのあまりの差に笑いが生じると言った流れになる。
練習を重ねれば的確な配置も可能だろうが、それはまず為されない。
出来たとして、盛り下がるだけだからだ。
福笑いによって、人は普段は嫌っている「派手に間違うこと」も祝えるのだ。
人は福を求める。
幸とか福とか運とか呼ぶ、見えざるものを求める時には大抵、人は畏まるものである。
余程の奇祭でない限り、神を拝んだり奉ったりはしても滑稽なものにして笑ったりはしないのは、気を悪くさせたら欲しいものが手に入らないと思うから。
取引先の社長を怒らせたらまずいと思うのと一緒である。
そうして大抵の神なるものに向けては、お行儀良くしておく人々が、於福さんに対してはその警戒を解いて緩みまくる。
御利益頂戴と求めつつ気楽に笑うことも出来る、福。
人類はずっと、福に甘える遊びを繰り返して来たのではないだろうか。
福の奥に、母。
(2023/1/30)
1月のふろくはお休みし、2月に2つご用意致します。