《真の実》
実践行動も出来るふろくのついた記事を月曜に書かせて頂いた。
ご活用下さるのに時間を要するであろうから本日は一旦、嘆や責から離れて、ごくあっさりとお伝えする。
3月3日は、桃の節句とも呼ばれるひな祭りの日。
「もも」を、真実を意味する「まみ」が転じたものとする説を見つけて、
「もも…まみ…もんも…まぁみ…」
等、交互に繰り返してみた。
これが全然混ざらない。
少しずつ変化もつけたりして音を味わったが、さっぱり混ざらない。
口の中で「もも」と「まみ」は溶け合わない。
だが、桃を真の実と呼ぶ流れの方は、何の不思議もなくすとんと腑に落ちる。
桃についての神話や伝説、民話の多くには、人型生命体として真に有りて在ることについて必要なメッセージが含まれており、
桃の字の
木+兆
で構成されるかたちにもそれが表れているからである。
「兆」とはは左右二つに離れる様を表し、それを「木」に並べることで「実が二つに割れる木」を意味している。
古くからある桃の品種は、種子のある核の部分が簡単に割れるのだそうである。
そこから、二つに割れることは目出度い兆しとされたと言う。
「簡単に割れると食べ易いから、嬉しくて目出度いよね」
と言うのは、便利さを好む人間らしい都合として分かる様な気もする。
だが割れることが目出度いのは中心まで丸っと見えるからであり、何より、
「二つで一つであると言う姿が目出度い」
のだ。
分割意識と御神体の“夫婦”が、主従や優劣で差を付けない一対の存在として物理次元に有りて在る、その弥栄な状態を示しているからである。
果実(御神体)の中心に、種(分割意識)が抱かれていると言う状態は、他の果物にもある。
だが、“二つで一つ”をその姿で表し、名を示す字でも表している果物を他に見たことがない。
真実は、意識だけでは成せない。
意識がどれだけ理想に燃えても、
意識がどれだけ思考を重ねても、
意識がどれだけ徒党を組んでも、
御神体と言うカミさんなしに何も出来ない。
そのことに感謝して桃の節句を味わい、
カミさんと共に夫婦揃って、
全母たる虚空からの天意に真実と言う愛を返す時、
桃の節句は女児の成長を願うものに留まらない、大いなる祭となるのである。
愛で生らす真の実。
(2022/3/3)