《目隠しの宴》
覚めたいが未だ不覚に在り、その状態が中々終わる気配を見せない。
そうした人々にはどこかまだ、覚を“特別なこと”だと見なしている部分がある。
神や仏や歴史上の聖人に繋げて、覚めたらそうした“特別なもの”の領域に行くことになるとイメージしていれば当然に覚も、天竺や神の国の様に遠きにありて思うものとなる。
「あの辺かしら…」
周囲に見当たらないからと言って、特別なことだとは限らない。
進化の過程で水中から陸に上がった生物の中で、最初にそれをしたものが“神”だった訳ではない。
たまたま、必要があって発生した流れの中の最初の一匹だっただけだ。
そしてそれは、別にどの一匹でも構わなかったのだ。
生き物が必要に応じて果たす進化と異なり、変容は奥深くから本質的な感覚記憶が蘇る変化である。
只、人類にとり必要不可欠であることと、流れに逆らうことに意味はない点において、進化も変容も同じで変わることがない。
意識が空に帰還すると、これまで長年自らだと信じて来た人物像も、虚空の生み成すかたちにちょいと付箋を貼った程度の後づけであり、本質的には何者でもなかったことが分かる。
そこに特別さはない。
「どうも。何者でもない者です」
と言ったって、誰も凄いと褒めたりはしないはずだ。
不覚が誉めそやす様な“特別”とは全く無縁の「普通の状態」が覚であり、そこから眺める不覚社会の姿は相当に捻じれて拗れている。
劣っている訳でもないし、悪い訳でもなく、只々複雑怪奇に入り乱れている。
その様を言い表すフレーズがどうにもまとまらずに首を捻っていた所、上からビックリする言葉がポンと降って来た。
目隠し変態パーティー
「おい、身も蓋もなさ酷いな!でもそれだ!」
と、唸った。
「許せない!」と憤ったり、「不安だ!」と嘆いたり、「いざ出陣じゃ!」と勢いづいたりして、大声を上げている様は、不覚的にどれ程“真剣”だったとしても、エゴを丸抱えしたままの、
目隠し変態絶叫パーティー
であるし、
「仲良し~」と抱き合ったり、「いい話~」と涙ぐんだり、「大好き~」と応援したりして、温もりを高めている様は、不覚的にどれ程“自然”体だったとしても、やはりエゴを持ち込んだ、
目隠し変態メルヘンパーティー
である。
目隠しが取れると当たり前だが、そうしたパーティーに参加している人達が抱える都合や意図や目論見について丸見えになる。
その為、参加のお誘いを頂いたとしても乗る気にならず、乗り方も分からなくなる。
分からなくとも眺めることは出来るし、分からないからこそ宴達の行く末を中立に観られるので、少々距離を置いて各種目隠し変態パーティーの盛り上がりや散会を観察している。
観ていると皆大体複数のパーティーを掛け持ちしているので、忙しい人などずっと師走状態になっている。
賑やかなことである。
目隠しをしていると、すぐ目の前に誰かが来てもその相手が目隠しをしているかしていないかをはっきり知ることが出来ない。
それと同じに不覚であると、相手が本当に覚めているかどうかを即座に、そして明確に理解することは難しい。
だから「信じる」と言う賭けを使おうとする者も出て来る。
妄信する暇があったら、見えずとも相手の言う内容を、傾かずに聴くことだ。
相手の立場に立って傾聴する必要はないし、自分の立場と言う都合を挟んで聴いても傾く。
誰の都合にもよらず真っ直ぐに聴く時に、相手の“音”を意識の内で観察することが出来る。
つまり、観音である。
音を通して、放つ者の誠は受ける者の誠に、放つ者の愛は受ける者の愛に届く。
同じものが引き合う。
誠や愛のある者との対話なら、する程に目隠しは緩んで来る。
己できつく締め直したりしない限り。
覚めていると、現れる相手が覚めているかそうでないかも自然と分かるが、それは特別優れた力を持っているからではない。
目隠しがない状態であれば誰だって、目の前の相手が目隠しをしているかそうでないか分かる。
只、それと同じであるだけだ。
当たり前だが、目隠しはしている者から離れていない。
目隠しが天竺や神の国にあるから遠くて外しに行けないなどと言う話はないのである。
取れてびっくり、拍子抜け。
(2021/11/22)