《生の様》
覚めてから当たり前に感じ続けているのが、生きることの面白さ。
生きていること、生きていると感じられていること、どちらも面白い。
しかもそれぞれのかたちに分かれて、かたち同士で触れ合えたりもする。
これも又、面白い。
触れ合えたり、「これ」と「それ」とは違うと分けたり、遠ざけたり近づけたり色々出来るのは、見えるモノとモノとの間に、目に見えぬ空間があるからだ。
見えるモノと見えぬ空間、その全てが切れ目のない、点滅する一なるもの。
虚空が生み成す物理次元にあって生きることを、面白く楽しんで味わっている。
そんな日々の中で先日、「君たちはどう生きるか」の問いかけが書かれた映画のポスターを目にして首を捻った。
どう生きるかの前に、
生きるって何なのか、
腑に落として分かることが、
順序として先なのでは?
覚める前から呼吸はしていたし、心臓も動いていた。
汗もかくし、腹も減るし、背も髪も爪も伸びるし、排泄もする。
それだけで“生きている”と見なしていた部分もあるが、何処か納得出来ない「生とは何か」の問いは意識の中にあり続けた。
意識が虚空に還り、全体一つで生きている現在は、この問いこそ最初に必要なものだったと分かる。
生そのものに向き合うこともなしに、生き様だけを成そうとするのは苦しいだろうことも分かる。
広い世界に産み落とされたから取りあえず死ぬまで生きているちっぽけな自分。
そんな分離の姿勢を保ったまま、どう生きるかの問いに答えようと理想を掲げたり情熱を注いだりするのは、相当ハードじゃないだろうか。
一時発奮したとして三日坊主になる人が続出しても不思議ない。
理想とは遠きにありて思うものみたいに意識の天袋にしまい込んで、気が向いた時だけたまに取り出す感じになっても又、不思議ない。
実際、人々はそうして来た。
「君たちはどう生きるか」的な提起は、これまでの時代にも度々出て来た。
髷を結う時代にもしていたし、洋装が広まった時代にもしていた。
あれら前時代の提起は何処へ行ったのだろうか。
一部の人間にやる気を起こし、より良い人生を求める切っ掛けとなり、結果として“人生を変えた”と言う印象の変化を起こしもして、やがて何となく静まる。
この繰り返しでもそれはそれで、どう生きるかが重要な人達にとっては望ましい結果と言える。
衆目を集める見事な生き様が出て来れば場が盛り上がるし、生きるって何なのか腑に落としさえしなければ、盛り上がりと忘却を好きなだけ繰り返せる気がするから。
タイトルを逆手にとって「生きるをすっ飛ばしてどう生きるかってどう言うこと」みたいな指摘がされている可能性も0ではない、もしかしたらと一応映画を観て確認してみたが、当宮でお知らせすることが必要な内容は特になかった。
どう生きるかの言葉を受けて背筋を正して生きた人が、生きる姿勢や人生のテーマについて語ることはある。
だがそこから「生きるって何なのか」「生きているってどう言うことなのか」に、問いが変化することはあるのだろうか。
生を分からぬまま人生の“どう”を問うことは、踏む地面なしに跳躍を試みる様に無茶なことである。
分からないまま歩むのが不安だからそれを振り切ろうとして、生き様の見事さを求めるのかも知れない。
鳥は卵から孵る。
その鳥も卵を産む。
だが孵らぬままの卵が、鳥を産むことは決してない。
モノコトには順番があるのだ。
生を省ける様はなし。
(2023/8/3)