《生くるは幸い》
いくさを漢字の戦や軍と書くのは、当て字なのだと言う。
じゃあいくさの来た道を辿ってみようと、語源を調べてみた。
すると、いくの部分は的を意味する上代語の「いくは」や射ることを意味する「いくふ」と関係があると言う説と、「いきいきとして生命力の盛んなさま」を表す接頭語の「いく(生)」との説を発見。
さの部分についても、箭を意味する「さ」「さち」と同根であるとも、接尾語の「さ」であるとも考えられると言う、説を見つけた。
いくさとは元々は「的に矢を射ること」を指していたそうで、そこには神事や芸道としての面も見えて来る。
人類が弓矢を用いて的に向かって何をしていたかと言えば、それは勿論狩りが始まりだろう。
獲物と呼ぶ位だから、当然それを獲たい欲求がある。
獲て、食べて、生きる。
そこに存在の優劣はない。
いのちといのちの間に、対等なやり取りがあるだけとなる。
待ったなしの緊張感に願いや、人の思い通りにならない自然に対する畏敬の念も合わされば、神事として射芸が磨かれたことも不思議ない。
そこから再び狩りの要素が強まって行ったのか、いくさには武人や戦士の意味、そしてそれらを集めた軍隊の意味が付く。
それをする個人や集団が、いくさ。
更に、人々がしている行いのことを示して、戦争や戦闘の意味で多く用いられる様になる。
2022に親しんでいるいくさの意味は、中世以降に広まった最も新しい使い方だったのだ。
「平家物語」「保元物語」などの軍記物語には、いくさが戦争の意で多く用いられていると言う。
この頃に戦いをいくさと呼ぶのがブームになったのだろうか。
カッコいいことを、ヤバいって言う感じで。
いく→的
さ→矢
と言うセットを眺めていて、いきいきとして生命力の盛んな様子をこの2つで表現することが何を意味するのか気づき、成程と膝を打った。
生きてする行い全てが、的に矢を射ることに通じる。
的を射ることは、「その時その場に、まさにと言える動きと結果を起こすこと」と言える。
生柳、生太刀、生弓矢、生魂、生日、生産霊。
いくと言う的は「生」そのものである。
いくさについて、
「イクルハサイハヒ(生幸)の義か」
とする解説を見つけ、無限の虚空から無数のいのちが分かれて生じる様を、裂くにも通じる「幸」とするのはまさにと頷いた。
生くるは幸いのいくさが、獲得の興奮に酔って次第に変質するのも又、虚空のやってみたかったことである。
その運びを、母神祭を通して味わい消化し、天意からの愛で昇華してみることにする。
いくさきざき、さきわい満ちる。
(2022/12/15)