《現実逃避?》
ふと気がついたがそう言えば、奇妙な言葉なのだ。
表題の「現実逃避」のことである。
現実から、逃避する?
現実生活の中で?
「へぇ~、器用だなぁ」
と、感心した。
御神体までそっくりそのまま現実からドロンと消える訳でなし、意識だけがそれをすることになる。
だが、イメージ旅行を楽しむ想像による現実逃避を試みても、その後帰宅してみた家がピカピカになってたりはしない。
逃避している間に、逃げたくなる様な現実を誰かが掃除してくれる代行サービスはない。
その為、意識はしょっちゅう気を散らして想像の世界へ彷徨い出ることになる。
器用で奇妙なことだが、やりたくないことや居たくない場所を一旦忘れる為に、旅行や趣味娯楽等気晴らしになる別の「嫌じゃないモノコト」に向かうことを現実逃避と呼ぶなら、もっと奇妙である。
これは先日見かけて、自分を残している状態であってもちゃんと事態には向き合っている素敵なメッセージだと頷いたものである。
記憶がないから責任もない風に誤魔化す酔っ払いの様に、「自分は居ません」と都合が悪くなった時だけ適当に作った全一イメージに逃げ込むのも勿論、詭弁だし茶番なのだ。
ポスターにある素敵な言い方を借りるなら、
「手が出たのは、酔っていたから?
酔った自分も、自分じゃないのかい。」
は、
「逃げたのは、現実が苦しかったから?
逃げた場所も、現実じゃないのかい。」
となる。
現実に在って多少の気晴らしをすることを現実逃避に出来るなら、それこそ全く
「器用だなぁ」
と感じる。
現実は逃げたり避けたり出来る様なものではないと知った上で、それでもそんな気分になれることの器用さ。
意識が目隠しをしているからこそ可能となる、“離れ業”と言える。
一時、現実逃避気分を味わったとして、人は大抵その後に「これが現実」と見なす、辛かったり苦しかったりつまらなかったりする場所や状況へと戻る。
現実は去り切れるものではなく、だから現実逃避を求めることは出来てもやり切って「現実逃避行」と呼べるものはない。
現実を好きな時に居たり去ったりする仮の場だと捉えるのは、意識による思い上がりなのだ。
虚空である感覚記憶を薄っすらとだけ残していることで起こる
「ま、どうせ又出てくりゃ良いんだから」
欲しいの出るまで引くもんね~。
何が欲しいかは変わるけど~。
の発想は、意識を虚空へ還さない。
丸っと帰還し、
「そもそも全てだったわ!」
と腑に落ちると、逃避する理由のないことも分かるし、逃避出来た気にも当然なれなくなる。
未だ覚めぬ世の人のしているあれやこれやを「器用だなぁ」と眺め、全体一つの流れと虚空に「それもやってみたかったんだなぁ、凄いぜ!」と、拍手する様になるのだ。
虚空から“離れ業”の器用さ。
(2021/12/13)