《現実パズル》

 

覚めてからは、訪れる様々な機会もたらされる情報を、全体一つの流れであると同時に、瞬間の連続によって時期と時季を、更には時代を構成するパズルのピースの様に感じることがある。

 

現れた時点では、それがどこにどんな角度でハマるのか見当もつかないことも珍しくないが、特に気にするでもなく、

 

「理由は知らないが、分かった」

 

と、巡って来るモノコトを引き受けている。

割と軽いノリで。

 

不覚社会に生きる人々の多くは、現実と格闘していたり、現実をより楽に乗りこなそう模索したりしている。

 

格闘の日々模索の日々があまり状況が変わらないまま続くのには訳がある。

 

一つは、意識同じ様な所をグルグル回ること興奮を感じて、そうし続けるのが目的になっていること。

 

一見不自由なラットレース状態になることで、回し車を周囲より少しは速く回せていると感じることへの興奮や、追いつかれることへの危機感興奮などが、意識にとって刺激になっている。

 

もう一つは、現実に新たな広がりを起こすパズルのピースについて、予め「こんなものをくれ」「こんなものは嫌だ」と注文を付けているので、欲しい形や色合いのピース以外は零れ落ち、思い描いた完成図が仕上がりにくい為である。

 

 

そもそも、エゴ帽子を被ったままの不覚分割意識「これこれこう言う内容であって欲しい」と思い描いた状態を形作る為に現実が在る訳ではない

 

イメージを具現化する力は、例えばデザインしたものを製品化する、企画を立てて開催する、浮かんだビジョンをカンバスに描く等の動きに活かされるのが本来

 

ところが人はこの力を、現実に対して求める「これこれこうあって欲しい」姿を叶える為に使おうとし、自分だと信じた“主人公”以外の人型生命体を、主人の望みを叶える傍役として配置しようとする。

 

その時点でもう、「其々の自由意志を阻害しない」と言う基本原理から外れている。

 

手前勝手な配役や配置は、自由意志発動ではなく、支配権行使である。

 

 

いのちといのちの間において誰も誰の支配権も持っていないので、「無い権利を行使しようとする」と言う、無理に無理を重ねたものになる。

 

支配することが上手いプログラムを持っていない者は、つまり不覚社会に生きる大多数になるが、実現が中々上手く行かずストレスを溜めたり、藻掻き続けたりする。

 

そして固定されたままの回し車が、ずっとクルクルし続ける。

 

ラットレースは庶民にしか関係がないと、そんなことには参加していないつもりの者達も、ちゃんと回し車に収まっている

 

 

予定調和で作られた輪廻に。

 

支配巧者プログラムを持つ者は、消耗し退陣を迫られるまでゲームを続けて、多くの者より一層その業を深くする

 

大多数を見下ろせる位置に置いたとして、やはりその場に固定されたままの回し車が、ずっとクルクルし続ける。

 

つまり覚めることについては全く不要な古いデータの積み上げが、不覚的に上手く行こうが行くまいが、全プレされる。

 

ご苦労なことだ。

 

puzzleの語源を調べると、pose(当惑させる)+-le(反復)で、意味は「当惑させること」。

 

 

難問で当惑したりさせたりと言った動きをする遊びと言うことで、ゲームとしての各種パズルはそう呼ばれる。

 

当惑のposeも、決まった姿勢をとるposeも、語源を辿ると同じラテン語のpausaとなり、これは「停止、休止、終了」を意味する。

 

そのpausaの来た道を更に辿ると、「少ない、小さい」を意味するpehwと言う印欧語根まで遡ることが出来た。

 

pehwにはpausa以外にも、few(少ない)、pais(子供:古代ギリシャ語)、pauper(貧しい)などの派生語がある。

 

こうして変化流れ観察すると、初めから当惑の意味が有った訳ではないと分かる。

 

新しい瞬間と言う、只「ちっちゃなもの」の到来に、途中から当惑し出したのは一体“誰”なのか。

 

申し上げるまでもなく、エゴによる注文付けに慣れて来た不覚の分割意識である。

 

pehwの「ちっちゃなもの」が受け入れられる時、受け取り時には一瞬、pausaの「停止、休止、終了」状態となる。

 

そこに注文通りかどうかの審議を挟んで、速やかに受け入れられずに同じ姿勢で固まったままのposeとなる時、当惑としてのposeも起きる。

 

これが反復して集まったのがpuzzle。

 

であれば、エゴを介した当惑の後付けがなければどうなるか。

 

 

瞬間と言う「ちっちゃなもの」の到来と速やかな受け取り受け入れ

 

この連続による、新鮮な面白さに満ちた現実パズルが現れて来る。

 

真の現実は勿論初めから在るが、覚めることによって気がつくので意識にとってはその時に“立ち現れて”来る様に感じられる。

 

パズルも変化に洗われて、本来の輝き出始める時代である。

 

パズルがと言うより、パズルを当惑しながら見ている不覚の眼が洗われて鱗が落ちることでそれは起きるのだ。

 

変化の波で、丸洗い。

(2021/11/11)