《狩りと食事》
前回記事に書いた、野生に暮らす生き物達の姿を写真展で観ると言う体験。
そこで狩りと戦は違うと気がつき、狩の中に「守」と言う字が入っていることにも気がついた。
この守が何を表しているかについても諸説ある。
犭で示された対象となる動物を、枠の中に追い込んで捕まえる様子だとか、「狩」の字と集め捕らえることを表す「獣」の字が中国語の発音ではよく似た「シュ」の音になるので意味が移ったのだとか。
いずれにしても人間が“狩り”と呼ぶ野生動物の行いを、写真を通して観察してみると何だか様子が違っている。
枠を使っていないし、集めて捕らえることもしていない。
逃げることが難しい場所に追い込んで捕まえることはするかも知れない。
だがその枠を作ったりはしない。
クジラが泳ぎながら口を開けて、入って来る生き物をそのまま飲み込むのを狩りと呼べるなら、獲物を集めて捕らえる姿になるかも知れない。
だが“仕留める”と言う動きとは、ちょっと違っている気がする。
クジラでも、ライオンでも、タカでも、クマでも。
もしかして
「動物達のあれって私達のこれに似ているね」
と感じた人間達が狩りと呼んでいるだけで、実際の所それをしている生き物にとっては単なる
食事
なのではないだろうか。
そこに獲得や損失、勝利や敗北の要素を含ませないでごくシンプルに、食事。
狩りについて分かった面白いこととは、この「人以外にとっては食事なんじゃない?」と言う点である。
野生動物の暮らしには冷蔵庫も金庫も武器庫もないと書いた。
鍵も名札も持たない彼らは、得たものをずっと保存したり、互いの間で交換したり出来ない。
彼らの財産は最長でも一冬くらいしか持たないのではないだろうか。
己のいのち以外何の守るものもないし、何なら子孫を残す為には個のいのちを危険にさらすかの様なことも迷わずする生き物達。
そうした生き物達の行いに、守るもの満載の自分達の行いを当てはめてみることも出来るのが、人と言う存在の面白い所である。
良く見ている様で、実際のそのものが何をどの様に行っているかについては見えていないのだろうか。
だとしたら何を見ているのだろうか。
謎だ、となっていたら上から「共感」と来て、
「あぁ、成る程」
と、頷いた。
共感力があるからだ、但し部分的な。
本来は全て同じいのち、虚空から生まれたいのちである、その自覚が意識には元々ある。
不覚とは不足や不十分ではなく、わざわざ覚を不で覆ったものである。
覚めるとは、覚醒と書いた衣装を上から羽織ることではなく、眠り柄の絨毯をめくった下に床があったと発見することだ。
覚めていないと元々ある薄っすらとした自覚に沿って、「全て同じいのち」ではなく「全て私と同じ」と自分中心人間中心に傾けた共感をする。
すると、そのものがそのものとして、例えばクマならクマとして何をどの様に行っているかは、薄くぼやけた状態で見えることになる。
人間柄を通して見る世界は、人間に都合よく編集される。
虚空から生まれた空間として世界を観察する時、狩った狩られたは人ならではの行いなのだと分かる。
勿論そこに良い悪いは全くない。
紅葉を狩っても果物を狩っても、木々もフルーツも別に気を悪くしたりしない。
只、「狩るって、そう言えば不思議なことねぇ」と人が気づいて、そこも含めて敢えて楽しんでみることは必要。
そうすると、狩ることの興奮や狩られることの恐怖に意識が酔わなくなるからである。
得て守る?
空から?
(2022/11/24)