《照らし合わせて》
対になるものではなく、同種のもの二つによる成就。
一体何故、ババ抜き遊びで組み合わせが出来たとして去る札が、女王と女王であったり、7と7であったりするのか。
問いを発した後、ペアになる同じ姿のものとして意識に流れ込んできたイメージがある。それは、
鏡像。
鏡に映る姿を見る時、
存在すること
存在としての自らを観察すること
この二つが同時に行われている。
照らしながら、照らすを観る。
アマテラスとツクヨミのはたらきが同時に起きている訳である。
鏡に映っているのは「これが自分」と信じた御神体だが、観察はそこに留まらない。
御神体を観察しつつ、表情の変化や目の奥の光を感じることで、垣間見える分割意識としての自ら。
その観察をしてもいる。
澄み渡る意識と言う曇りなき鏡を通して可能になる、分割意識と御神体を合わせた“分神”としての自らの観察。
そこには何の願望も都合も差し挟まれない。
画像と違い加工出来ないのが、鏡像である。
眼を大きくしたりお肌を白くしたり等のご都合アレンジを加えずに、
只、映るだけ。
左右逆さまに。
逆さまと言う点に気がついた時、「双子の様な同じ種類のカード」に重なるイメージとして浮かんだのが、呪いと祝いだった。
この二つについては、既に取り上げて読み解いている。
解けないまま残る謎。
許せないまま残る罪。
拗らせたままの未練。
そうした数々の“呪い”は、祝いが正面から向き合うことで溶け出す。
再び意識に浮かんだ双子の様な本体と鏡像のビジョンを眺めて、改めて祝福は施しではないと頷いた。
夢を与えるとか、希望を与えるとか、人は人に関与するのが好きである。
それらと同じに、祝福も与えようとする。
その与えよう気分の裏に、手間暇かけてあげているの思いがあれば、順風な時は施せていることへの自己満足で平和な感じ。
だが、何かの拍子に風向きが変わればその平和はいとも簡単に引っくり返る。
例えば与えた結果として感謝とか感動とか返礼等の見返りがなかった時や、互いの関係と重要度が変化した時、与えたつもりの“祝福”は
「あれだけしてやったのに!」
の不満に変わる。
人が鏡を見る時、何かを施したり施されたりしているだろうか。
「あたしってその他大勢より優れてるわぁ~」
と言った評価を挟まずシンプルに鏡を見る時、起こるのは、逆さまに映った姿を通しての発見や気づき、理解。
そしてそこから更に起こるのは感謝と歓びである。
前回記事に書いた、読み込みながら深い感動を覚えたのは「呪いは問い、祝いは答え」を改めて理解した時だった。
呪いはあってはならないものではなく、解く体験に向けて用意された問題。
祝いはそれに対する解答。
解答がされないので、解凍も起こらず固まったまま保存されているだけなのだ。
分かっていたことだが、全体一つの運びは何も邪魔されていないし、何も邪魔していない。
人が邪魔にするものやちょっとした抵抗、諸々含め万事順調なのだとしみじみと頷いた。
不覚の人はホラーも好きである。
呪いを怖がり肝を試して遊ぶ時、凍らしておいたものに顔をつけて「ちべた!」とやっているだけなのだ。
それはそれでやりたければ続けても何の問題もない。
肝試しを人生の喜びとするのも自由なら、覚めずに去るのも自由。
只、「ひゃっこい!」も大して楽しくなくなり、「いつまでやってんだ?」の問いが浮かんだ時には、その呪いに祝いを向き合わせて解く準備が出来ている。
照らし合わせて、とけるもの。
(2022/8/11)