《無理と全力》
「全力を尽くせ!」
こう言って無理を強いられることが不覚社会では起きたりする。
「無理は良くないよ」
「お前には無理だよ」
こう言って、やる気に水を差されることも起きたりする。
どの辺りからが無理で、どの辺りまでが全力なのか。
言う方も言われる方も、何でかそれを確かめようとはしない。不思議なことである。
自由意志を全く認めずに、又はそれがあること位は意識しても自分の好きな様に曲げたり塗り替えられるものと軽んじて、
出来ると思ったから、出来るまでやるのを全力と呼ぶ。
そう言う人は、相手を中立に観察せずに、この先の未来で目にしたい結果を映し出して見ている。
体力や能力の面で、出来ないと思ったから無理なことだとする。
そう言う人も、相手を中立に観察せずに、こちらは逆に身体を壊すとか失敗するとかの目にしたくない結果を映し出して見ている。
何処に見ているかと言うと、意識が想像図として思い描いて見ている。
想像すること自体は良くも悪くもない。
意識の能力の一つであり、必要な時もある。
只、想像の元になる情報を取り入れる際に、不覚の分割意識とそのお気に入りチーム、お抱えにしている記憶取り出し係の脳、都合フィルターをそれぞれかけた目と耳、これらだけ使うと出来上がるのは、実際の現場とは似ても似つかない脚色お絵描きの想像図となる。
車が目的に合わせて道を行けるのは、窓があることで視界が開けているからではないだろうか。
先が混んでいるか、天候によって道の状態はどうなっているか、何か近づいて来る気配はあるか。
刻々と変わる状況をその時に応じて知るには、視界が開けていることは必要。
そして外の音を聞くこと、集中をもっと深めて聴くことも必要。
外を見る為の窓を塞いだ状態で自作の想像図を広げて、丸ごとを聞く耳も聴く耳も持たずに「進め」や「止まれ」の指示を言い放つ。
それに従って動く側も外を見る為の窓を塞いだまま行けば、変てこな結果になるのは当たり前じゃないだろうか。
同様に、外を見る為の窓を塞いだ状態で自作の想像図を山の様に作り、お絵かきだけして聞く耳も聴く耳も持たずに座ったまま。
これも又、変てこな動きと言える。
座り込んだままでもいのちとしては点滅しているし、そして時は止まらない。
実践体験をしないことは、可能性を冷凍保存することにはならない。
車窓を塞いだままで自分のナビは間違いないと人を操ったり、信頼出来るナビを求めて右往左往しても、視界が開けることはない。
今この時に現れるモノコトを目を逸らさず中立に観察し、併せて一歩一歩踏み出すことを行って新体験を重ねる。
すると、地に足のついた無理のない全力とはどんなものか、感じて分かることが出来る様になって行く。
無が全ての有を生んでいる。
人生と言う旅を余すことなく活かして楽しみ味わうのに、無も全も欠くことは出来ないのだ。
寝たまま見るのは、旅の夢だけ。
(2022/11/10)