《為した所の》
「しょい」又は「せい」と読む、所為 。
意味を調べて確認すると、前に付いた言葉を受けてそれが原因や理由であることを表すと言う。
年の所為
人の所為
気の所為
色んな所に原因や理由を持って行くだけでなく、
自分の所為
として、自らを責めてみたりもする。
自他問わないからと言って全体性がある訳ではなく、所為は常に全体の中の一部分を指す。
それが為した所のこれ
つまりはずっと、部分から部分への注目の繰り返し。
所為は、良いと感じることに対してはあまり使われない。
良い感じのことには人々は「おかげ」を使う。
好天のお陰で
お力添えのお陰で
あの苦労のお陰で
物事の結果について援助があった為にこの結果がもたらされた、と言う意味で用いられる表現だそうだ。
多くは、得したと感じている時に「おかげ」を使う。
より丁寧に「おかげさまで」と言うことも多い。
「○○様様だよ」とか、ありがたい時に様を重ねて付けるやり方みたいに、おかげにさまをつけたおかげさまも御礼マシマシ状態と言える。
ところがこの、おかげandおかげさま。
全部が全部有難いと言う訳ではなく、皮肉をこめて用いられることもあると言う。
何と言う気まぐれさとややこしさ。
これも又、不覚あるあるなのだ。
何でも混ぜっ返し、はぐらかし、煙に巻き、巻くのに使った煙が風向きの変化で返って来て苦しんだり怒ったり。
誰の所為ゲームも、結論が出ないからこそ続けられる、責めっこ遊びである。
原因の究明を求めるかの様な気配をまとって「何かやってる感」を出す。
たまに「何かを責めることに意味はない」と訳知り顔になる場面を挟み、そして又誰の所為ゲームに戻ることを繰り返す。
「他の所為」「己の所為」「所為にしても仕方ない」のメニュー構成で、ずっと営業して来た不覚社会。
そうやって遊び続けようとするのも勿論自由。
だが、そこに使われる気力体力含めたあらゆる力は日に日に縮小している。
虚空も物理次元も、古い遊びを続ける気は全くないし、何かや誰かを待つ気も全くないからだ。
既に為した所なら
再度踏む用はなし。
(2023/7/24)