《水と星》
本日は半期に一度の大祓デー。
溜まったものをサッパリ片付けて「よーし後半もやるぞ!」となる準備として設定されていた夏越の祓だが、本年は夏の方が
「来ちゃった!」
と、フライング気味にもう訪れた。
既に夏の盛りではと言う中で夏を越そうとする、ちょっと不思議な感じになっている。
ここ数年のウイルス騒動によって何につけ盛り上がり辛く、多くの人はそれまでよりも抑えめにして夏を過ごして来た不覚社会。
もう出たくて出たくてたまらない人流と、ヒートアップしてやって来る気流。
そして雨も帰って来る気らしい。
ぶつかると一体何が生まれるのか、興味深く観ている。
一週間後に訪れる七夕は、牽牛と織女の物語でお馴染みの星祭りであると同時に、降雨祈願の水祭りでもある。
織り上げた布や衣を神に献上する棚機行事でもあった。
この三つはどれも、物理次元の成り立ちと見事にシンクロしている。
水と星は、そのまま、
流動と点滅を示す。
機織りは、意識が瞬間の機会を行動として織り上げ、神に捧げる歓びを示している。
既に幾度か申し上げた通り、物理次元は流動し同時に点滅もしている。
虚空からのメッセージを分割意識達が感じ取って生まれた行事として、改めて七夕を味わい深く感じた。
人々は牽牛と織女や、もっとざっくりとイメージした“神なるもの”を星に例える。
その星に向かって自分、又は自分の身内、もしくは自分にとって思い入れのある誰かや何かについての様々な願いをかける。
それ自体は悪いことではない。
良いことでもないのと同じに。
短冊と言う紙に書くことで、この願いがありますの表明になるので、神関係なしに実現に向けて行動する力が増す。
叶った後は、それが神の了解によるものかどうかは割とどうでもよくなるだろうのか、七夕に願ったおかげで叶ったぞと言う人を見かけないし、叶わなかったからと言って神を恨んだり責めたりする人も見かけない。
七夕のお願い事は、人間にとって実現するしないよりも「願うことに意義がある」みたいな感じになってるんじゃないだろうか。
ともあれ、はっきりしているのは「叶えて!」の発信だけでここまでやって来たと言うことである。
つまりは、本来は母であり子でもある存在が、まだ「ママ、これちょーだい」しか発していないと言うこと。
七夕に逆に願いを叶えてみる試みもすることは、全母性の復活に通じるチャレンジとなる。
誰の願いか?
誰でも結構。
但し、相手に対して「恩を売る」様な気持ちがあれば、それは願いを叶えたことにはならない。
何故なら七夕の星々は、願いをかける人々に対して恩を売ったりしていないからである。
特に見返りを求めない、シンプルで、後を引かないもの。
世にはどんな願いが溢れているだろうか。
願いを観察するのも面白いことだと、大変愉快な気持ちで、発見した願いを叶える用のメモ付き短冊をこしらえてみた。
来週の七夕に向けて、気が向かれたら皆様もお使いになれる様、ふろくとしてお載せしておく。
お楽しみ頂ければ、幸甚である。
(2022/6/30)
《6月のふろく 凡短冊》
空に浮かんだ短冊に、叶える願いをご記入下さい。
実現へ向けた行動を通して気づかれたことや味わわれたことは、下の波間のスペースに自由にお書き頂ける様になっています。