《機転動転?》
先日、片付け物をしていてふと意識に浮かんだ問いがある。
「そう言えば自動車って何で自動車で、
自転車って何で自転車なんだろう?」
これだけ見ると正気かとなりそうな問いだが、要は何故それがそうした名で呼ばれているのかと言うこと。
自動車は当たり前だが動く時にタイヤが回転している。
そして自転車も車輪を転がして走る時に、動いている。
「てことは、全ての自動車は自転車であり、全ての自転車は自動車じゃないか」
と再び、人が聞いたら正気を疑いそうな感想を口にした時にポンと“自動ドア”のビジョンが意識に送られて来て、「あぁ、成る程ね」となった。
人間が動力源にならない。
そうした物達に、人は自動〇〇と付けた呼び方をする。
だとすると電動アシスト自転車って、それはもう自転車と言えるのか、しかし自動車でもない様だしと首を捻った。
「自…動、転車?」
車道脇に「自転車はこっちを走って」と引かれている線は、道によってあったりなかったり、その幅についても曖昧。
だからだろうか自転車は「軽車両につき原則車道で」としながら、時に応じて歩道を行くことも一応認められている。
歩行者でもない、四輪のクルマでもない存在として、両者の間を自転車と自動二輪車が通る。
(↑この珍発言については、こちらの記事にて)
自動二輪と四輪は、歩道を行けない。
歩行者は車道を行けない。
自転車だけがどっちにも行ける何とも曖昧な立場で動いていた所に、更に自動二輪と自転車の間に電動の自転車が登場。
道幅は拡がらないのに選択肢だけ増えたら、当たり前に窮屈さが増すことになる。
これは現代社会における「不覚の制限がある中で、多様性が求められる」状態に行き詰まりが来ることを、映し出す象徴になっていると気づいた。
自動車だけでもキュウキュウなのに。
先程の「自…動、転車?」の後に、直ぐ「動転かぁ」とも気づいていたので、そのことについても併せて頷いた。
動転とはシンプルに、移り変わることを意味するだけの用い方もあるが、大体は「気が動転して」や「突然の悲報に動転する」等、非常に驚いて平静を失う、驚いて慌てる時に使われる。
どっちか何だか良く分からないものに、
どっちでも行ける曖昧な道を、
平静を失いながら慌てて乗ったらさぞかしスリリングだろうなぁ
と電動自転車について調べて眺めていたら、各地でバッテリーの盗難が相次ぐと言うニュースが出ていた。
そんな意味でのスリルまで乗っけて来たのか。
電動の自転車の盗難に気が動転。
カルタにでもなりそうだ。
不覚社会はワクワクドキドキと並んでハラハラドキドキも非常に好む。
それが「あって欲しい!」でも、「あっちゃ困る!」でも、興奮する。
その場の状況に応じて素早く適切な判断や行動が出来ることを、機転が利くと言うが、我良しを狙って利かそうとする機転は、変容の時代には、非常に滑り易くなっている。
利かそうとした機転が、
ツルッと行って気が動転。
そうした場面も表れ易くなるだろう。
気の転じるは我の為にあらず。
(2021/10/25)