《梅も桜も》
先日、お目にかかる機会のある方とご一緒した先で、梅なのか桜なのか、丁度満開になっている所を通った。
同行の方は桜じゃないですかねと、仰られる。
強い芳香のなかったことから、成程そうかも知れないとなりつつ、
梅なのかい
桜なのかい
と、樹や花に声をかけてみて、ふと内側から出て来た言葉が、
「梅も桜もバラ科なんですよね」
だった。
結局梅でも桜でも愛には変わらぬとその場を通り過ぎたが、後になってふと気づいたのは、
桜の咲くことに世間では「合格」を重ねる
と言うことだった。
そして桜の散ることには「不合格」を重ねる。
咲きっ放しで停止する桜はなく、物理次元の生きとし生ける桜と言う桜は全て、咲いた後に散る。
だが人だけが、散らない桜となることを求めている。
不思議なことである。
この桜になぞらえた表現、「散る」については現代では見かけない。
それでも広告などで、試験合格への期待や願いを込めて「桜咲く」と表現することは、令和になっても続いている。
片方について言わなくなっただけで、咲くかどうかの判別はずっと続いているのだ。
「…なぜ?」
となった。
何故、桜の運びを2つに分けたのだろうか。
問うて間もなく勝負そして戦場のことが浮かび、成程と頷いた。
戦場には勝者と敗者があり、勝敗が生死を分けるものである時、死することを「パッと散る」と表現したりする。
世の中の試験には定員があり、全員合格とは中々ならず、大抵は合格する者としない者の両方が出て来る。
試験会場を戦場と見なせば、生存競争に繋がる勝敗の結果として「咲く」「散る」とすることも出来たのかも知れない。
勝利を誇る者が「咲き誇る花」であり、敗北して去ることが「花と散る」?
咲いている時に揃っていても、散る時に花の多くは、殊に桜は分かり易く花弁がバラバラになる。
それが敗れ去る、消えるイメージと重なって「サクラチル」のフレーズは出来たのだろうか。
しかし「花と散る」と表現する時の花には、夜空にドーンとひろがる花火の様な“丸ごと感”もある。
そして「死に花を咲かせる」とか言う表現もある。
これは「立派に死んで、死後に誉れを残す。また、死んでかえって誉れが増す」ことであるらしい。
「どう言うこと???」
その一方で「死んで花実が咲くものか」と言うフレーズもある。
「どっちなんだい???」
謎は増える一方。
とっ散らかった矛盾を引き連れて騒げることはエゴならではの力と、言ってしまえばそれまで。
だが、人間の持つ“花となりたい欲求”に興味が湧いた。
そうして分かった面白いこともあるので、ここから更に深く意識を向けてみて、木曜記事にて併せて書かせて頂くことにする。
散りて叶うこともある。
(2023/2/20)