《格好遊戯》
「そうかこれ、当て字だったっけ」
カッコいいとか、カッコわるいの「格好」「恰好」。
元の書き方は「恰好」であり、時代が下るにつれて恰を格の字に変えた「格好」も使われるようになったそうだ。
「恰」とは、
忄+合
で、「心に合っている状態」を漢字にしたものと言われている。
意味は「心に合う」「身体に合う」両方で、「身体に合う」の方で使うことが多い模様。
本来、心身は一つのものであることが分かる。
恰の音読みは「コウ」「カッ」で、訓読みすると「恰も」となる。
必要に合わせて丁度好いのが恰好、その人に合う体つきのことを恰幅と言う。
改めて並べてみると、恰と格は全く違う字である。
読む音に共通性があって字を当てることは別に珍しくもないが、それにより意味合いが変わることはある。
必要に合わせて丁度好いの恰好が、格が好いの格好に変化した時にもそうなった。
恰好の様に過不足なく丁度であることを好しとするのではなく、格を好み更にそれを良しとする。
これが、「格好良い」である。
「恰好良い」だと、
ちょうどよくて、よい!
と、「頭痛が痛い」みたいな感じになる。
「善い」も含めて、人間は本当に「よい」が好きだ。
格がどんな風であると好ましいとされるのか。
「格付けチェック」
「格の違いを見せつける」
等の表現を観察すると、やはり「格上であればある程、好ましい」様である。
「俺は格下だぜ、やったぁ!」と言うのを聞いたことがない。
「別格の存在」も「雲の上の存在」と同じ雰囲気で、やはり上方向に別席を設けられている。
格が別であるだけなら、社会階層からはじき出された様な存在だって格の別と言えそうだが、そうはならない。
人間は格をブロックみたいに積み上げ組み上げして、それによって扱いに差を付けて色んな不覚体験をして来たのだ。
不覚にとり、
運がガチャなら、
格はレゴ。
エゴが肥大していればいる程、格レゴを手離し難くもなるだろう。
ガチャもレゴも、元はちいさな人達向けに作られたおもちゃ。
それを成人達も買ったり集めたり飾ったりして楽しむ様になった昨今。
「お子様向け商品は儲かる」
↓
「熱心に開発販売する」
↓
「商品が充実する」
↓
「お子様以外も買う」
↓
「お子様以外の嗜好や思考もお子様風になる」
と言ったプロセスを経て現在は、不覚社会そのものが巨大な遊戯施設の様になりつつある。
その中で運の良さや格好良さを比べ合うこともして遊んでいる。
これも又、不覚表現の一つであり、何処まで全母性から離れて行けるかの実験になっている。
離れて行ったきり戻らない人々を見送った後で、逆に大人になることを求める様になるだろう。
それが本来の道であるのと、後、人は何でも飽きるからである。
現在は「意識高い系」と魂胆を見透かされ多少揶揄された呼ばれ方をしているものも洗練されて、もっと普通の成長志向が生まれる。
意識高い系は実際の所、自意識高い系である。
そこから自、つまりエゴが取れた時、シンプルに「成長し大人になることは楽しい」と言う意識になる。
話はそこからだ。
先程、恰好良いについて
ちょうどよくて、よい!
と書いたが、そうであれば恰好悪いだと、
ちょうどよくて、わるい!
と言う、クレイジー度合いを増したものになる。
本来何の過不足もない自然な流れに対して好しとし、
それに格子を被せて「良い」「悪い」の判断を下す。
そうした変てこな動きをわざわざしてみているのが不覚なのだと、恰好と格好と言う二つの「かっこう」は教えてくれているのだ。
有りて在るまま、良し悪しなし。
(2021/10/21)