《日々別人》
「もう別人だね」
この所、立て続けにそんな言葉を頂戴している。
数年振りや中には数十年振りに再会した方々から、月に何度かエレベーターに乗り合わせた時だけお目にかかる方まで。
世の中的に設定されている立場や間柄みたいなものも様々だが、頂いた言葉は同じ「別人」。
同じ別人って文字にすると何だか不思議だが、以前にその方々が“これ”と認識していた人物と、別人だねと言った時点の“これ”との印象がまるで異なっている様である。
老けたとか若返ったとかではなく、「別人!」。
それを切っ掛けとして面白いと感じたことが幾つかあったので、本日記事にてご報告させて頂く。
面白いと感じた一つは、別人と言われた時そこに込められたものが共通していたことだ。
老けたとか若返ったとかではなく、と書いたが、もし彼らが感じた変化が老いであったなら、どうだろう。
そこには同情か、自身も老けたと思っている人なら重ね合わせての哀愁か、もしくは自虐他虐問わずの嘲笑が込められるのではないだろうか。
だが、彼らから聴いた言葉の中にそれらはどれも、全く感じられなかった。
逆にもし彼らが“これ”に感じた変化が、若返り又は知っていた頃からの変わらなさであったなら、どうだろう。
「変わらないね〜!」又は「若返ったんじゃない⁈」が出て来るのではないだろうか。
人間は、変わらず若々しく居ることに憧れと肖りたさを持っているから、そうした人を見ると口に出して表現し、あわよくば実現まで持って行こうとする。
頂戴した言葉にはそんな願掛けみたいなものは感じられなかった。
別人、の中に込められて居たものを言い表わすなら、
驚き
願掛けは感じなかったが彼らの言葉には共通して、驚きと、
“意味わかんないけど、ちょっと嬉しい”
みたいな雰囲気があった。
何でそうなっているのか見当もつかないから、驚く他ない。
だがこちらとしては、その驚きが逆に面白い。
何故なら目を覚ましてからと言うもの自身の姿形について、と言っても主に顔についての見た感じになるが、
「おっ、今日はこんな顔か」
と、日々変わるのが当たり前になっていたからだ。
これが面白いと感じたことの2つ目となるが、すぐに理解が広がり、更なる面白さが波の様にやって来た。
数年前から、“自ら”としている“これ”についての印象が日々変わることについて、お目にかかる機会のある方々にはお話して来た。
話し始めた当時の反応は「へぇ~」や「ふぅ~ん」。
そこから、「お会いする度に、こんな人だったっけ?ってなる位に違って見えます」と言う方達が現れ始めた。
そして、目覚めや進化変容について全く何のご説明もしていない方々から見ても、まるで別人と感じることが起き始めている訳である。
この変化の拡大は、とても面白い。
頂いた「もう別人」の驚きの中に、垣間見える“ちょっと嬉しい”。
打ち寄せる進化の波に足先を付けてみた程度のちょっとであっても、そこに人型生命体が本来こうした変化を歓ぶ存在であることが感じられる。
不動であるから、動を歓び、
無であるから、有を歓び、
空であるから、全を歓び、
不変であるから、変化を歓べるのだ。
どんどん変わる、面白さ。
(2023/7/10)