《旅は道連れ?》
「旅は道連れ世は情け」
と言う諺にふと意識が向いたので、調べてみることにした。
これは、
旅をする時に道連れが居れば心強いのと同じに、
世の中を渡るには人情をもって仲良くやっていくことが大切
そんな意味であるそうだ。
もう少し詳しい解説には、
「昔は情報量も少なく旅先に知人などもおらず、今と違って旅は大変不安なものだったことから、
旅に同行者がいるということはとても心強く感じられる。
同様に、人生の旅も人の情けや思いやりがあってこそ心強く感じられるものだし、助け合う気持ちが大切だということ。」
と、あった。
人間は人生を旅に例えたりする。
「よくぞこの世に生まれけり!」となれる何かしらのテーマを求める旅だったり、娯楽に学びにとあれこれ楽しんで適当に帰ろうとする旅だったり、どんな旅であるか内容は様々。
旅に例えられる人生が、実際の旅行とちょっと違うのは、「気がついたら旅の途中にあって」「自分で何もかもは決められないスケジュールに従って」「お迎えが来るまで過ごす」と言う点。
これって旅と言えるのだろうか。
連れて来られて迎えが来るまでルールに従って過ごすのなら、旅より託児所の一時預かりの方がピッタリしている。
させられている感のある旅を探してみて、修学旅行がそうだと気づいた。
決められたプログラムに合わせて、与えられた時間を充実させるのもアリ、適当に過ごすのもアリと言うのは、人間の抱く「人生とは何か」のイメージに合っている気がする。
不覚を決め込む人生は、学業を修めない修学旅行。
学業を修めない修学って全く矛盾しているが、こう言う学業を修めるぞと明確にテーマを示してプランを組んでいる修学旅行って見たことがないので、そんな所も含め似ている。
ルールを守って集団行動し、自由時間を楽しんで、土産を買って帰る。
2021時点の修学旅行に、自立や創造は求められていない。
良い子でいれば上々である。
人間が人生と言う旅に対して、学を修めない修学旅行や、神だか何だかが組んだパッケージツアーみたいなイメージを持っているなら、適当に楽しんでおさらばすると言うスタンスであるのも不思議ない。
旅と言う字は、「数人が隊を組んで移動する姿」を表すものだそうだ。
移動する時の目印に旗を使ったので漢字の中に旗の字の左方が含まれている。
であれば「一人旅」と言う表現は、矛盾していることになる。
人型生命体は、一人の様に見えて分割意識と御神体の夫婦者であるし、そこにエゴや思考が加わると大変賑やかと言うか、しっちゃかめっちゃかな珍道中が展開する。
そのことに気づいていて「一人」でも「旅」だと表現しているのであれば、面白い。
不覚から覚への変容を大いなる旅と表現するなら、全母たる虚空から粒々が放たれたのが旅の始まり。
そして、一旦は全体感覚を忘れてエゴを使ってありとあらゆる不覚体験をし尽くすまでが、言ってみれば修学旅行の部分。
不覚と言う学びを修めるには、そこを卒業して全体一つに帰還する必要がある。
帰還が嫌でずっとエゴ付きで遊びたい意識達は未だに、リセットして再び修学旅行初日から始める気でいるが、ご承知の様にもうそれは叶わない。
還ろうとする人の袖を掴んで「旅は道連れ世は情け、ね?」と行きたい方に付き合わせることは出来ない。
遊び続けたい人の袖を掴んで「旅は道連れ世は情け、ね?」と行きたい方に付き合わせることも出来ない。
誰も誰かを付き合わせることは出来ない。
出来ないのに無理に引きずられる訳はなく、結局付き合う方も自ら選んでそれをしている。
「2021時点の修学旅行に、自立や創造は求められていない」と書いたが、不覚と言う学びを修めて覚に帰還した者が世に増えるにつれ、行事としての修学旅行の質も変わって行くだろう。
この様に連動して栄え深まるのが「連」の面白さであり、これは全体一つでありながら個別である様に見えることで可能になっている。
連の面白さや味わい深さは、手離しの自由と独立独歩の姿勢なくして分かり得ない。
「お前も道連れにしてやる!」と言った縋り付く幼さや余裕のなさを抱えたままでは、到底感じることは出来ないのだ。
帰るまでが旅行。
還るまでが変容。
(2021/9/13)