《支と本》
「へえ、次元が変わるってさ。うまいこと言うなぁ」
声を担当する人が代替わりして変更になるらしい。
人類が諸問題と見なす出来事に揉まれてアップアップしている最中にも、変容の時代到来を告げるメッセージは常に世に降り注ぎ続けている。
中立に観察しなければ、それらについて深く気づくことも出来ない訳だが、
「エゴまみれじゃないことは立派である」
と、勘違いしたままでそれをしようと試みると、大分おかしなことになる。
聖なる色眼鏡をかけたままで、「中立な観察ゥ~」とやっていても当たり前に丸ままは映らないのだ。
中立とは、個人的な都合や手前勝手な色付けがない状態である。
そんな眼鏡ございませんと自然な風でいて、何かおかしいなと感じる人物を発見したら落ち着いて丁寧に観察してみると、「…あ!カラコンだ!」と気づけたりする。
機会が訪れたら、お試しになられることをお勧めする。
カラーコンタクトは瞳の大きさや色合いによって、持ち主をお洒落に見せたり目力を増したりする。
実際周囲にどう見えているかは様々だろうが、使用する当人にそう感じさせることは出来るし、好みが似ている人々からはある程度の支持を得られる。
何らかの切っ掛けによって急に物事が分かるようになることを、目から鱗が落ちると表現する。
単なる邪魔ではなく、目の鱗にもカラコン的効果があり、持ち主を優位に見せたり影響力を増したりもする。
変容と言う神なる本能が、不覚の歪みで煩悩状態になっている時、変わりたさが「何だか分からない変身願望」として現れることがある。
好き勝手に着飾って来たものを、丸ごと脱いで本質に還るのが変容である。
だが不覚を拗らせた分割意識達の多くは、お気に入りを手離す気がない。
そこで着せ替え程度の変身に執心したり、本質など知ったことかと「好みの質に変えようとして」変質者状態になったりする。
ちょっとした気分転換や面白で変身を試すのは楽しいことかも知れないが、「元の自分が退屈」又は「好きではない」からするのなら、なかなか苦しいことになる。
一回外すともう使えないから鱗を惜しんで取って置き、エゴ残し我慢大会みたいにしても、どんどん目は乾いて来る。
目から鱗の解放を味わう時期は既に訪れている。
聖なる色つき眼鏡やコンタクトも、「お先真っ暗!」と決めつける悲観の色つき眼鏡やコンタクトも、どれだって同じだが「いいもん」と信じているとフィット感が増して取り辛い。
立派な業績とか、立派な行いとか、ずっと人類に善きものとして好まれて来た「立派」。
だが、一つの派を立てることを成功と見なしてそこを目指す時代はとっくのとうに終わっている。
そろそろ立派からも卒業しないと全体一つの流れとのズレは増すばかり。
足元の地面が裂けてそれがどんどん拡がって行く感じ。
進化変容について中途半端に齧った状態であると、覚と不覚に片足ずつかけているので股裂きになる。
世間でよく不倫が問題として取り沙汰されるが、あれも「二股は無理よ」「別々にかけとくと裂けるよ」と言うお知らせである。
欲目で濁らせたり、色目使ってややこしくしたりしなければ、世界はとても素直で美しいと自然に分かる。
そして、その世界を不覚社会が思い描いた様に好きに塗り替えたりは出来ないことも分かる。
立てた派では、歯が立たない。
社会的にどれ程立派でも、意味を成さない。
何故なら「派」とは川の支流を意味する。本流ではない。
部分は全体に為り替われない。
派を立てることは部を立てることで、中立とは異なる。
不覚の世の中学園で部活動の長になるみたいなもので、卒業して大人になることではないのだ。
支流は太さを競い支配を目論むが、本流つまり本道は何も支配しない。
至福の愛と歓びで只、流れるのみ。
新世界に派で歯は立たない。
「りっぱ」のもう一つの語源とされる、立てられた論に対しこれを破る「立破」であっても、成立しない。
世界は常に素直で美しく、そして何もかも流動しているからである。
水に描く絵の儚さよ。
(2021/9/9)