《手段と体験》

 

「間…ではないよなぁ」

 

と、月曜記事にて書いた、

 

歩行者でもない、四輪のクルマでもない存在として、両者の間を自転車と自動二輪車が通る。

 

の部分を読み返して、「あれ」となった。

 

ちっちゃくてもバイクも自動車なので、二輪も四輪もに並んでに走る。

 

左寄りで走ることにはなっているが、左から追い抜くことはあってもそこが定位置にはならない。

 

しかし「左」「バイク」からヒントが来ていたのも確かだ。どうにも気になる。

 

「バイクが左、バイクが…、あ!あのバイクか」

 

 

自転車の中でも殊にスピードが出るスポーツタイプのものは、名称の多くに「バイク」が付いている。

 

それらは、バイクと呼ばれはしても自転車なので左端を走り、そして結構なスピードが出る。

 

「左を行くバイクもあるってことか」

 

と、道に関するルールを調べてみた。

 

クルマやバイク、原付、みんな揃って左寄りしてねとする「キープレフトの原則」はあくまで原則であって、どっからどこまでの明確な基準はない

そりゃそうだ、道の幅が様々だから決めようがない。

 

何となくの歩み寄りをしつつ、みんなで左に大集合。

 

偏りなく中心に集まるのが全員集合だが、ワイワイと左に寄り集まって移動したら、引っくり返りやしないだろうか。

 

その左端で「呼び方です」としたってバイク並みのスピードも出せるものがヒュインヒュイン横を通る時、右方で目障りに感じる場面があっても不思議ない。

 

ましてトラックやタクシー等働くクルマや、消防や救急の為に働くクルマにとっては尚更だろう。

 

 

生活や人命がかかった持ち運びを行う現場に、娯楽や夢やロマンや向上心を持ち込んで並走したら、悪意なくルールも守って走ったとしても、時に軋轢が生じる。

 

それが不覚である。

 

自動二輪にとっても、四輪にとっても、歩行者にとっても、自転車、特にバイク的な要素を持つ自転車は波乱の種となり易い存在であることは、現行の不覚社会では確かだ。

 

 

 

承知の上で体験するなら、集中余裕を欠かすことは出来ない。

 

裏を返せば集中余裕を生む中立な意識を育てる、動の行成り得るのだ。

 

動の行として乗っている者が、現状どれだけ存在するかは知らないが。

 

生活がかかっている働く自転車も参加しており、何だか左側の混沌とした状態は加速する一方

 

  

原付バイクだって正式名は原動機付自転車であり、名称や機能のあちこちが混線した状態で交わって通ろうとしている。

 

「混ざったままどこまで詰め込めるかのチャレンジ?」

 

と、闇鍋みたいに色んなものが入って行く左側に意識を向けて調べていたら、今度は宙を浮くホバーバイクが販売開始になったと言うニュースを発見して笑った

 

現状では公道を行けないし、価格も一般に普及するには難しい額だそうだ。

 

その為、今の今左側に来て「詰めて詰めて~」となりはしないだろうが、道幅はそのままにこうして手段だけ増えて行くのは不覚ならではの奇妙さで興味深いなと、笑った後で唸りもした。

 

 

安全かつスムーズな移動を求める人々には「笑いごとじゃない」話だろうが、覚めないみんなで作った混沌なのだ。

 

そしてそれは、そうしたみんなの都合で出来ている。

 

手段は、手段である前に体験である。

 

何かの手段であることに重きを置いて行動をする時、体験としての集中は薄れ、味わいも薄まる。

 

目的を叶える為に、交通の手段、生活の手段と呼び方を様々にした手段で人は実現に向けて策を講じるが、手段はあくまでも体験味わうこと延長として発生するものだ。

 

 

「動の行!」と目指しても、体験味わうことを忘れて自己研鑽の手段としてしかそれを行わないなら、どんな行動も動の行にはならない。

 

目に連れられた手がそれ以外を置き去りにして抜きん出ようとするのも又、全体性を欠く“追い抜き”ではないだろうか。

 

目的を叶える手段の為に、人は自他の行動について「やむを得ない」とすることを増やす。

 

やむを得ないものに対して、

 

意識は目を瞑る癖がある。

 

 「目を瞑ってでも出来る」

 

とは、大きな自信の表れとして言われること。

 

あやふやなままやむを得ず瞑った目で手を出せば、どう言った質の体験になるかは明らかである。

 

瞑って磨ける意識の意志なし。

(2021/10/28)

10月のふろくはお休みし、11月に2回ご用意することに致します。