《手に負えんワールド》
「そうか、水が後押しした物語か」
先週記事にてトランプ、そして鏡について書きつつ宮司が取り出して眺めていたのは、
世界各地で読まれ、楽しまれたり研究されたりして来たこの物語は、作者であるルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドッドソンが、彼が親しく付き合っていた家族の小さな三姉妹を含む、友人達と共にボートに乗って過ごしていた折に、水上で語られて産声を上げた。
同乗していた友人ダックワースがそれは君の即興の物語かいと尋ねると、ドッドソンは「そうさ、進みながら作り出しているのさ。」と答えたと言う。
初めは現在知られている内容よりも短く、タイトルも『地下の国のアリス』だった物語は、筆を加えて練り上げられ『不思議の国のアリス』として世に出ることとなる。
促したのが水と言う形のないものであることと、
誕生が地下と言う底知れぬ場所からであること。
随所にこうした興味深い要素が垣間見える。
見えるのだが、何しろ入り組んでいる。
ご存知の方も居られるだろうが、この物語には『鏡の国のアリス』と言う続編がある。
こちらも大変入り組んでおり、読み解こうとすれば相当腰を据えて取り組む必要のある内容となっている。
アリスの世界を通して送られているメッセージについては以前から気がついていた。
しかしこのタイミングで、こんなでっかいタマが投げられるとはどう言うことなのか。
東西南北について読み解こうとあれやこれやしている端末に、放って来れる様なものじゃないはずなのだが。
そんな問いかけを上にしたら、水に関連して更なるビジョンがやって来た。
こちらも以前から表の広大なイメージと奥にある深遠なメッセージに「まぁ、そうでしょうね」と納得しつつ置いておいた、水に関係する物語である。
何しろ、長いから。
どっちもこのヤイノヤイノとしている時期に、放るサイズのもんじゃないだろとなった。
「東西南北も読み解き切っていないのに、アリスとこち亀で両側から挟むんじゃないよ」
そんな傍で聞いたら全く訳の分からないだろう「押すなよ!」の文句を言いながらふと、これは読み解きなさいよと追加ファイルが席にどっさり積まれたと言うより、“水の後押し増しているよ”と言うメッセージなのではと気がついた。
だから益々集中して進むことだと。
そして自然な流れで両作から受け取れるヒントがあるなら、それも役立てて進むことであると。
単に調べものを増やせと無茶振りされた訳ではないのかと、頭を掻きつつありがたく流れに沿う意志を新たにした。
来るものに多過ぎることはない。
必要なものを時に応じて読み解けば十分であるし、もし注がれる量が大きくなるならこちらの器も大きくするだけだ。
全体一つの流れに沿う時、モノコトは後押しの力で勢いを増して進む。
気象庁のサイトを見たら、「一般的には、堤防の決壊や河川の水が堤防を越えたりすることにより起こる氾濫を洪水と呼んでいます。」と書いてあった。
両手を差し出す、ささげ持つ様子を漢字にした「共」。
そこに水の要素を加えた「洪」。
氵(さんずい、水)+共(差し出す手)=洪(水が沢山差し出される)の構成になっているそうだ。
大きいと言う意味では非常に縁起の良い漢字であるとして、人名にも使われたりする。
だが、「やったー洪水だ」と言うのは聞いたことがないのだ。
洪だけでも水が沢山なのにそこに更に水を付けるので過剰となって、大量の水が溢れることを洪水と呼ぶのだろうか。
大きい小さいや多い少ないについて、人間は人でないものに対しても人間同士でする様な判断を、随分と沢山下して来た。
だが全体一つの流れは、人間の手に負えるものである必要は別にない。
必要は、人の都合では決められない。
全体を潤し満たして流れ来る水に対し、手中に収めて好きに扱えるだけの量しか受け付けないとすれば、当たり前にそれは溢れる。
日に日に手に負えなくなる様に見える地球環境や社会情勢に、不安を感じる人もあるだろう。
だが、途方に暮れて手をこまねいていると言う一見“かわいそうな”状態を辿って行けば、手段を講じ手出しをして手中に収めたい欲望がある。
進化し続ける世界を手に負える程のものにして欲しいと言うのは、土台無理な話なのだ。
意識に堤防は要らない。
(2022/8/15)