《恐怖と可愛》
前回申し上げた通り、本日は「こわいとかわいい」について分かったことを書かせて頂く。
世の中に「かわいい」とされるものは様々ある。
幽霊や妖怪と言った、得体の知れなさが恐怖に繋がるものを、人の手でかわいらしく描いてみたものもその一つ。
こんな感じの絵をあれこれ眺めていて気づいたことだが、どうやら
丸みを出す
色を明るくする
表情豊かにする
この辺りを行うと、かわいげが出る模様。
しかしコワかわいいやキモかわいいものを好む気持ちから、人がこわいに魅かれる訳ではない。
こわいを求める理由には、もっと当事者性がある。
こわがる本人にとって旨味があるのだ。
人間には「共感する」と言う力がある。
それがあるから、他者の実体験やフィクションの世界における登場人物の体験を、己がするかの様に感じて、喜んだり悲しんだり恐れおののいたり出来る。
人間には「記憶する」「予測する」と言う力もある。
だから様々な話を己が身にも起き得ることとして感じることが出来る。
こうして書くと当たり前のことみたいだが、こわい話を聞いて震え上がるのにも結構色んな力が必要なのだ。
家で飼ってる猫とかに、真に迫って渾身の怪談を披露しても、声のトーンでしかこわがらせられない。
何がどうしてこわいのかを理解出来るのは、人特有の力である。
そして人が「こわい」と感じるだろうものをあれこれ調べて行くと、天災、人災、幽霊、破産、流行病、失脚、危険生物、敗北、失恋、未確認飛行物体etc、どれをとっても
心身に危険が及ぶかその可能性のあるもの
であることは変わらない。
その中でも怪談として楽しまれるものは、
非常に稀であり
物語として映える
点がポイントとなっている。
月曜記事で申し上げた様に、ひょんなことから“こわい”に意識を向けていた所へ不意に上から届いた「かわいい」。
ビックリしたが、それなら人がこわさを欲することについて合点が行くとスッキリした。
かわいい、から直ぐに展開して出て来たのは、
我が身かわいい
であった。
こわさを感じることは、長くは続かない。
こわい話なら終わった後、肝試しならその場を離れた後、平和な日常が戻って来る。
そこで感じるのは安心。
我が身の無事を喜ぶことが出来る。
本当にこれで終わったのかな、と薄っすら残る不安にゾクゾクしたりしながら。
ともあれ、安心が完全に保証されないのと同じに、不安や恐怖も完全には保証されない。
365日、日替わりの内容にして必ず怖がらせてくれと言うサービスを要求したら、お化けも逃げ出すんじゃないだろうか。
わざわざ探したり出かけたりしてこわさを楽しむのは、その後の日常への無事な帰還を喜ぶ時、我が身の可愛さを確められるからである。
不覚社会において大事なのは一にも二にもまず自分。
自分とはご承知の通り、自・分割意識のことである。
不覚状態での「自分」は、我と言い換えることも出来る。
我に夢中である多くの人は、普段「我が身かわいい~」の確認はそこまで熱心にやらない。
危機が訪れたり、危険な状態について見聞きしたりして、日頃はOFFになっている我が身かわいいがONになる瞬間。
自分にとってどれだけ自身が大切かを、感じることが出来るのだ。
遠回しに抱きしめる遊び。
(2022/9/1)