《怪の奥》
“隔たりある怪物の力を借りて、都合に合わせてその力を奮いたいと言う願望が不覚の人にはある。”
先日この様に、記事に書いた。
力を借りる相手として、例えば神やら天使なら、
彼らのお眼鏡に適う何かしらの“見どころがある”感じを必要とするイメージ
って、ないだろうか。
眼鏡をかけた神や天使が居るかはさて置き、要は力を貸す側に選ぶ権利があると言うこと。
だから助力を許可する理由を、選ばれる側が自分の中に何かしら作って居なければ、空想に耽ることすら出来ない。
力を借りる相手が悪魔なら、どうか。
人物については重視されないが、それなりの代償を差し出すものと言うイメージ。
こうしたものは、ないだろうか。
怪物もそちらに近いが、悪魔とちょっと違うのは、
悪魔に対しては人間にあるのと同じ都合や思惑を認めるのに、怪物については動物の様にとっ捕まえて便利に使役出来るイメージもある
と、言うこと。
ポケットサイズのモンスターなら、夢の世界の動物みたいな扱いになっている。
時と場合に応じて友としたり、仲間としたり、使役したり出来る。
そしてその主導権は怪物ではなく、力を借りる自分の側にある。
「欲しいのは主導権を保証されたエネルギーなのか」
と気づいてそこから直ぐに、そう望む人々が逆に普段どれだけ「主権がない」と感じているのかにも気づいた。
神や天使に選ばれる様な特別感のないその他大勢、そして主権がない。
怪物の力を欲しがることについて、
“この欲を抱くには、自身をどれだけ平凡かつ無力と見なしているかが鍵となる。”
と書いたが、平凡かつ無力とはそう言うことだ。
平凡なその他大勢は通常、世間で目立つ様な乱暴ははたらかない。
無力な者なら当然、そうした乱暴なことをする力も持たない。
しないものだし出来もしない。としても、願望や欲求はつのる。
人は本来誰でもない者であり、どんな要素もその内にプログラムとしては持っている。
持っていて只、作動させていないだけなのだが、内側に存在を認められない要素は「端から持っていない」ことにして封じようとするのが不覚あるある。
無力感や閉塞感によってギュッと押し込められた、様々な「無かったことにしているもの」を勢いよく飛び出させる時に、人は怪物の粗暴な力を借りようとするのだ。
粗暴と書いたが野性的、原始的な力とも言える。
飛び出す勢いに乗じてどさくさ紛れに、隠していた名誉欲や支配欲、攻撃性などで遊んだりするので、怪物願望は意識の散らかりを増すに留まっている。
だが、怪物の立つ場所を通り抜けてその奥まで覗いてみる時、実に味わい深いことが分かる。
来週記事では、それについて書かせて頂くことにする。
怪の力で、遊ぶ奥には。
(2023/3/2)