《志の火》
魂とは何なのか。
それについて書かせて頂く一環として、「たましひ」と言う音を紐解いてみる。
「たま」は「玉」と同源であり、霊魂の意味を持つとされる。
その一方で、「しひ」については調べてもこれと言うものは見つからず、気になって調べた先人もやはり居た等で「不明とされる」と出て来た。
霊魂&不明?
相変わらず、ふわっとしている。
不明とした後に、「魂し火」で人魂・鬼火の意とする一説もある、と言う補足がされていた。
人魂とか鬼火とか色々物語性を加味した形になっているが、火であることは的を射ている。
この謎の「しひ」部分について、「し」と「ひ」に分けて意識を向けてみた所、程なくしてするするとその意味が送られて来た。
“「し」とは開始の始であり、停止の止であり、そして志でもある。”
何と、先の二つについてはそうだろねだったが意志の志、志でもあったとは。
しみじみと味わい深く、その見事さに唸った。
志の字を上下に分けた上の部分。
これは士ではなく、之の変形であると言われている。
「…の?」
之の字は人名以外にあまり使われず、「の」や「ゆき」と言った読みの方がお馴染み。
だが之にも「し」と言う読みがある。
足の形を表す止に、真っ直ぐ行く道と言う意味での一を足して出来た字だそうだ。
志から之から止。
この変形に次ぐ変形の流れを遡って観察していて、あっと気がついた。
止が示す一歩一歩の足の形は、瞬間瞬間に発生する世界に通じる。
その連続で物理次元は展開して来たのだ。
止に加わる一は、本道である弥栄の道を示す。
只、進む。
歓びに満ちて。
之の晴れ晴れとした明るさに気がついた瞬間、打ち寄せる新たな波の様に再びの大きな気づきが訪れた。
之は死と対になる、もう一つの生なのだ。
死と対になるものとしては生が知られる。
誕生と死亡は、点滅の様に瞬間を切り取った姿での対比。
誕生の瞬間の連続としての之は、死亡の状態の連続としての虚空に支えられて、続いて行く。
之と死を並べて観察していて、『葉隠』にある「武士道と云うは死ぬ事ことと見付けたり」の一節は、志の字中にある之に通じる形の士を、死に結び付けたものかも知れないなと感心した。
自他を分けた不覚の状態を堪能するには、「武士たる者は主君の為には死ぬことも覚悟しなければならない」とした上で、没我や献身に重きを置く武士道アレンジが必要だったのだろう。
没我は、覚への変容にあたって意識が入滅する時に不可欠である。
献身は、特定の主君にではなく全体一つの弥栄を祝う中で自然と成される。
変容の時代には、没我と献身も真の状態にリニューアルする。
意識の志で点す火とは、つまり意志の輝きである。
覚めぬ間は、志したとして、それが「良かれ」に根ざしていたりする。
その良かれについて判断するのは頭である。
だが、之の字には良いも悪いもない。
頭も関与しない。
虚空の天意と、それに応える愛によって、歩む足と、行く道がそこにあるだけなのだ。
志の火を点す。
(2022/6/23)