《御待ちマーチ》
“十八番として来たものに向き合い全体一つの流れの中で果たせる役割があるものかどうかを中立に観ることが出来るなら。
役があればそれを果たし、なければ慣れ親しんだ十八番にかまけず新しい役割に向けて進むことが出来るなら。
それは、まさしく弥栄である。”
月曜記事でこの様に申し上げた。
シンプルに全体一つの流れに意識を向けて、巡って来るものを受け取り、役を果たして行くだけなのだが、不覚社会での強い刺激に慣れているとそれは退屈に感じられるかも知れない。
そんなことを意識に浮かべていたら、すっかり忘れていた不覚時代の記憶が蘇った。
「わたし、御役目が欲しいの」
そう言われ、まじまじと目の中を覗き込まれたことがある。
欲しい返答、おそらく「○○さんならきっと凄い御役目を授かりますよ」みたいな言葉を引き出そうとなさっただけだろうが、宮司を名乗る“これ”は不覚時代から目を覗き込まれ“これ”ではないものに訴えかけられると言う体験をたまにしていた。
“これ”は虚空に繋がる為の電話交換手ではないのだが、そう言った使い方を試みられていたのだろうか。
覗いて来た方は、目に見えないものについて鋭く勘を働かせることが出来る人である様だったが、勘の使い道を「他より恵まれた望み通りの自己を実現させること」に定めていた。
虚空に、こうした人の意識は行き着かない。
格好良くお洒落な感じに整えた不思議や奇跡を好む人々が、虚空の御前立みたいにして設置した「大いなるもの」とか「霊的存在」とかに飛びつきたいだけである。
だけなので、突然の御役目リクエストにも
「そう言われましても」
となるばかりで、関心も興味もあまり湧かなかった。
しかし、引っ掛かった点はある。
御?
「御」を付けられると判断出来る、つまり評価出来るものと、そうでないものがあるのか。
不覚も不覚の、大分古い時代の体験データだが、そうした役目に格付けをすることの奇妙さには当時から気がついていた。
役を選り好みする様な人間に、神だか仏だか知らないがその人が供給元だと思っているありがたい何処かから、望んだ役が授けられるだろうか。
目をギラギラさせてこちらの目を覗き込んでいる人の顔を見ながら、そんな問いが浮かんだことも甦って来た。
現時点の“これ”なら当時の“これ”に、その答えを簡単に述べることが出来る。
それらしいものを一時、念力で作ることは出来ても遅かれ早かれ枯れて行く。
後には消耗した当人が残るばかりで、それも又、消えて行く。
だから関心も興味も起こらなくて当たり前なのだと。
御役目を欲しがる人はそれを「天職」とか「生き甲斐」「使命」と言った中長期的なものとして捉えがちだが、役に決まった期間はない。
ごく短期間の役もあるし、継続することで力を増す役もあるし、次に渡す役もある。
共通しているのは、全体一つの流れに沿って巡って来る役はどれもその端末を活き活きさせると言うことだ。
犠牲の精神も悲劇的な見せ場も特に必要ない。
派手な活躍も特に約束されない。
だから、不覚的にはつまらないものと映ることも多いのだろう。
人生は一度きり。
輪廻転生概念に寄りかかったって、それぞれの人生はやはりどれも一度きりではないだろうか。
その一度の機会に、御待ちして賑やかな行進を楽しむのも勿論自由。
だが、役に立つことの面白さを真に理解し実感するには、選り好みして頭に戴く、特別を意味する御は邪魔となる。
世の全ての役に御を付けられるなら、それは弥栄である。
逆にどれ一つ御を付けなくても、それも又、弥栄である。
どれも、変わらない。
(2022/10/27)